
コロナ禍の最中に出した本で、歴史教育について

大学でやり残したことはほぼないのですが、唯一の例外は、ゼミ生とボードゲームができなかったことかな。
(中 略)
アクティヴラーニングが目指すのは、ボトムアップの学習だったはずでしょう。たとえばボードゲームをプレイする体験を通じて、教師の指導に従うというより、参加者それぞれの内側に自ずと驚きや省察が生まれて、これまでとは違った感じ方をするようになる。
117・120頁
(強調を付与)
と、ぼくは書いている。いまゲームを選ぶときも、歴史がモチーフだとつい食指が動く。
実際に後に刊行したボードゲームの本でも、辻田真佐憲さんと第二次世界大戦、安田峰俊さんと宋朝中国の競争社会を再現する作品をプレイして、紹介するエッセイを寄せてもらった。どちらも、お気に入りの名作だ。


そもそも歴史には、相対的に伝わりやすい側面と、そうでない(がもっと重要な)側面がある。ゲームのような “体験” を通じてだと、歴史書を読む以上にそのことが、実感として味わいやすい。
たとえば国力とは「領土を広げる」ことであり、大きな国ほど強え! みたいな発想は、直感的にすぐわかる。だから多くの歴史ロマンがそれに則って書かれるし、ゲームの仕組みにも乗せやすい。
専門用語では、そうしたゲームを「陣取り」と呼ぶ(上記の『主計将校』も、広義にはそのひとつ)のだが、なじみのない人でもすっと入れる作品にこのタイプが多いことは、同書で

具象性のある「空間」を自分の領有物にする行為は、それ自体が人間の身体感覚に訴えるものがある分、説明なしでも意味を理解しやすいのだろう。
(中 略)
動物どうしの縄張り争いにも近い、生物学的な本能の次元でドーパミンが出るのかもしれない。
186頁
という風に、触れたりした。
が、「国をデカくするのが偉い!」だけで歴史を教えるのは、戦前の日本やいまのロシアみたくなってしまうので、好ましくない。むしろ歴史のうち表現しにくい側面を再現する作品が、そんな事態へのワクチンになる。

これを実感させてくれる、優れた歴史ゲームがある。ふだんはウォーゲーム(スターリングラードの攻防、とかね)を提供する雑誌「ゲームジャーナル」が、めずらしいテーマを採り上げた『フランス革命1789』だ。
わずか8マス(都市)だが、簡易なフランス全土のマップを設けて「陣取り」の要素もある。だがこのゲームの主題は、なんと①絶対王政から⑥共産主義までの政体をめぐる「体制選択」なのだ。他では、まず見ない。
面白いことに、各プレイヤーは「ナポレオン」のような、歴史上の偉人にはならない。彼らの裏にいるパトロンとして、影響力を行使したい人物を競り落とすのだ。お金や人脈を投じて、派閥に取り込むイメージである。
時代順にそった5つのラウンドの、冒頭ごとにそうした「競り」がある。強いカードに絞って落とすか、枚数を多く入手し手番を増やすか、むしろゲーム中も利用する影響力ポイントを温存するか。戦略の分かれ目だ。
さらに、たとえば「ルイ16世」を持っていると、ラウンドの終了時に政体が①絶対王政だった場合、勝利点が入る。なのでだんだん、コイツ、あの体制を狙ってるな…という目論見が、プレイヤーどうしの間で見えてくる。
つまりフランス革命を描くと言っても、歴史は “進歩” するんじゃなくて、「誰と組んでる(=カードを持ってる)から、俺はこの体制がお得」という欲得づくで左右されるのだ。このリアリティが、なんとも鮮烈である。

プレイ終了時の盤面
ボルドーを王党軍、南仏3都市は干渉軍が占領
中央の4名がギロチンに送られた
さらには “進歩” が、いいこととも限らない。政体が③共和制になっていると、他人のカードを「逮捕」や「処刑」するアクションが可能で、避けるには「亡命」しか手段がない。
亡命した人物カードは(帰国しないかぎり)、海外勢力をフランスのマップに侵攻させることで、得点を稼ぐしかなくなる。リアル売国奴だが、本人としては望む政体を、祖国に樹立したいのだ。
ぼくらのプレイでは順当に③共和制には進んだものの、ルイ16世を擁し王政復古を望むプレイヤーが、「カトリノー」を操りカトリック王党軍の反乱を続発させ、一時は国土の半分を占拠した。

一方でみんな歴史を知ってるので(苦笑)、警戒されたのはナポレオンだ。政体が⑤帝政になった場合、ナポレオンの保有者が大量得点をひとり占めするため、登場した途端に即時逮捕・処刑された。哀れすぎる(涙)。
運命の最終ラウンド、獲得済みの勝利点で劣るぼくは「バブーフ」を競り落とし、一発逆転の⑥共産主義への移行を狙う。だがわずかに条件を満たさず、③共和制を覆せずに敗北した。ブルジョワ支配の壁は厚かった。

出てくる人物やイベントのカードは、効果も含めて史実を踏まえているから、「大事な事項をゲームで覚えましょう」的な授業での使い方もあるだろう。だが、この作品の真価がそこにはないことは、すでに自明だと思う。
なんとなく “偉業” として捉えがちなフランス革命も、それは特定のゴールにたどり着いた後からふり返って見えるひとつの立場であって、リアルタイムではどこへたどり着くかわからない、欲望と混乱の噴出があるだけだ。
そうしたセンスを歴史から得ることが、現在に対する見方も強靭なものにする。たとえば “民主 vs 専制” みたいな単純すぎるストーリーに乗せて、テキトーに解説するセンモンカには騙されない。

すっかりゲームの話になってしまったが、歴史学者(笑)をやめただけで歴史家としてはいまもプロなので、今月の『Wedge』の連載「あの熱狂の果てに」では、そんな示唆を学べる研究書からフランス革命を再考してみた。
髙山裕二『ロベスピエール』は、ゲームでも(共和制を護る上で)最強レベルのカードとして登場する「独裁者」の、意外な実像を描く。暴君と理想家というふたつの顔は、今日の “民主政体” もまた陥りがちなジレンマだ。

『Wedge』での結びは、以下のとおり。ぜひ多くの人の目に触れて、歴史や民主主義を再考するきっかけになりますように。
市民の自由と人権、身分制からの解放、言論が動かす民主主義の政治――フランス革命は、様々な「善きもの」のはじまりだとされる。
だが法を軽んじた放逸、ルサンチマンの応酬、デマゴギーに基づくポピュリズムといった「悪しきもの」もまた、同じ場所から始まっていた。
他のすべての熱狂におけるとひとしく、どの先進国もいま、この二面性から自由ではいられない。むしろ革命の中で見落とされたものと向きあうときに、はじめてその困難は終わるのかもしれない。
『Wedge』2026年6月号、10頁
参考記事:

編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2026年5月21日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。








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