
多事と病気でご報告が遅れたが、昨夏に行った講義の動画が10ミニッツ・アカデミーで配信されている。当時はまだ「参政党の躍進」が、内外で最大の政治ニュースとされていた平和な頃だ。
が、そこで話した内容が、想定しなかった方向でその後の時代を言い当てることになった。

採り上げるのは、これまでも紹介してきた中井久夫の名著『分裂病と人類』(原著1982年)。もっともタイトルに反して、分裂病(今日の統合失調症)が主題になるのは、第1章のみである。
実は、最初に書かれたのは第2章のうつ病論で、単純にいうと、江戸時代の強引な「皆稲作化」が、うつを日本人の国民病にしてしまい、狭義の病気でない人まで思考のパターンを拘束しているという話をしている。
植生的には向いてない土地で稲作してるので、そもそもシステム自体にはじめから無理があるのだが、日本人はそう考えない。むしろ前提を疑わず、自分の「努力が足りないから」うまく行かないんだ、と自責的になる。
いわゆる “無理ゲー” というやつで、この罠にはまれば誰でもうつになる。ある時期まではそれでも、彼らの自己犠牲を「道徳の模範」と見なしてケアするしくみがあったが、コロナで政府はそれもポイ捨てし、社会が壊れた。

精神科医として中井久夫がすごかったのは、ホントは向いてない「稲作への過剰適応」がうつ病を生み出すとすると、逆に徹底して “稲作レス” な時代や社会の記憶は、分裂病(統合失調症)の方に宿っていると考えたことだ。
マジで、どんな頭してるとそんなん思いつくんだ。このレベルの “天才” と呼べる歴史家は、他に網野善彦とミシェル・フーコーくらいだろう。

日本の稲作で重要なのは、人工的な水田を先例どおりに維持・管理する、保守性と計算可能性である(それができないのを「自分の欠陥」として責めると、うつになる)。が、世にはそんなのを一切気にしない人もいる。
むしろ脈絡なく飛び込む外界の刺激に過敏になり、瞬間的な “いま” の得失だけを考えて即応する。密林の狩猟者にとっては、この素質のほうが重要だ。前は熊は出なかった、なんて言っても、いま出たらおしまいである。
それはけっして、極端な場面に限らない。路上で誰もが体験する、ちょっと「分裂病っぽい」状況を指摘して、中井いわく――
オランダの臨床精神医学者リュムケは、正常者もすべていわゆる分裂病症状を体験する、ただしそれは数秒から数十秒であると述べている。
(中 略)
なかでも、自転車で人ごみのなかを突っ走ると起こりやすい場合があるのは興味がある。当然、追いぬく人の会話の一句二句をひろって走ることになる。この切れ切れに耳に入ってきた人のことばは、それ自体はほとんどなにも意味しないのだが、いやそれゆえにと言うべきか、聴きのがせぬ何かの(たとえば自分への批評の)兆候となる。そこからさまざまな “異常体験” への裂け目がはじまる。
2013年新版、7-8頁
(改行と強調を付与)
脈絡のある会話でなく、「断片だけ」を聞き続ける環境はメンタルによくないと昔から言われていて、同書の当時は自転車の走り抜けが典型だったが、いまやこれはSNSの日常になってしまった。
Xで相手の発言の文脈を踏まえずに絡むのは、マナー違反なはずなのにみんなやっている。いつしか報道や論説もタイトルだけで「わかった気」になり、推したり貶したりする人だらけだ。

うつ病(稲作)に近い気質を持つと、過去のとおりに繰り返せないことを自責的に捉えるが、分裂病(狩猟)に親和的な素質があると、むしろすべてを未来にあるかもしれない凶事の兆候と見なして、騒ぎ・叫びがちになる。
もちろんふだんなら、どこかで落ち着きを取り戻すわけだが、本人ないし周囲の社会が、ストッパーがかからない状況に置かれていると、行きつくところまで行ってしまうことがある。

どうやら多くの “分裂病性異常体験” は、その基底にある不安あるいは(対人的)安全保障喪失感(insecurity feeling)の “量” というか根の深さいかんで、恐慌状態になる場合からほとんど看過される場合まで実に大きな幅があるようだ。
幻聴でも、すこし聴こえただけで参ってしまう人もあるが、「大学教授なら停年までつとめられる例がある」とも聞いた。
8頁
熊のニュースを聞いてなければ、「それは熊の兆候だぁ!」と言われてもまさかと思うが、現に熊が出ているとそうはいかない。もちろん熊はただの比喩で、未知の感染症や想定外の戦争にも、同じことがあてはまる。
分裂病は英語でSchizophreniaなので、中井は分裂病寄りの気質を多く残す人を「S親和者」と呼ぶ。彼らの特性は農業以降の社会には向かないため、ふだんはそう目立たないのだが、機会を得ると噴き出してくる。

強迫的な農耕社会の成立とともに、人間は自然の一部から自然に対立する者となったとは複数の人々の指摘するところだが、私はそれと同時に分裂病者が倫理的少数者となったと言いたい。
このときからS親和者は、社会にみずからを押しつけようとすれば、「上」へ向かうより他はなくなったようだ。古くは王、雨司、呪医、新しくは数学者、科学者、官僚などに。当然、多くの失調者が予想されよう。
(中 略)
農耕社会の成立後にも、S親和者の言動特性が倫理的に正の値を帯びることはある。一般に非常時か特殊な職業倫理である。それに限るといってさえよい。ただ、そのようなものとしてS親和的倫理が近代にも大きな力を持ったことは言っておかねばなるまい。
25・27頁
そろそろわかってきたかな? 中井が見抜いたように、誰にでも分裂病に通じる素質があり、ただしそこには濃淡もある。”濃い” 人も、ふだんは “薄い” 人たちに稀釈され、静かに溶け込んで暮らしている。なんの問題もない。
ところが社会をパニックが襲い、安全が奪われたという感覚に覆われると、「あれは凶事の兆候!」「先んじて叩け!」と叫ぶ形で “発症” する人が出る。これもハーメルンの笛吹きのようなもので、ある程度やむを得ない。
問題は、そこから先だ。
なにせ倫理的少数者だった人が、危機のなかで「王、雨司、呪医」にまで成り上がれてしまうのだ。そうした人は自ずと、危機の永続を望むようになる。悪辣というよりはおそらく、ほとんど無意識かつ本能的にそうなる。

で、不安のあまり彼らの予言に依存しないと生きていけない人たちが、「うおおおセンモンカにすべて従え!」と怒鳴り続け、実際に世の中をそうしてしまうことがある。とくに、SNS世論にどっぷり浸かってるとヤバい。

この状態までいくと、コロナ禍やウクライナ戦争は終わってほしくないし、なんならまた危機が来てほしいとさえ、思っている場合がある。実際、たとえば憲法を改正して緊急事態条項を入れるには、その方が都合がいい。
もっとも「王、雨司、呪医」になること自体が目的な人は、改憲に熱心な現政権に嫌われたら意味がない。なのでその手の識者は、イラン石油危機やナフサ不足だけは “ない” ふりでスルーするので、すぐに見分けられる。
前も書いたが、危機の時代に “専門” の壁を越えて、なんでこんなにわらわら「予言者もどき」が湧いてくるのかを、人間とはそもそもなにか? という地平から考えられるのが、正しい意味でいう “人文主義” である。
ところが最近では、TVで小説の話ができるのが “人文主義” で、だからTV出てる人どうしで話題ごとに依存しあい褒めあいます、みたいなコメント芸能人のカルテルも、その名を騙るらしい。

もちろん彼らは、ニセモノである。つまり学者でもなければ、文学的でもないし、そしてなにより人間的ですらない。
10ミニッツ・アカデミーでの講義は、期せずしてそんな時代を考える「総論」の形になった。「各論」については、これから著書やnoteでやって行きますので、ぜひあわせてご期待ください。
参考記事:


(ヘッダーは悪名高い「人民寺院」の予言者ジム・ジョーンズ。VICEより)
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2026年5月26日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。







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