私の学生時代には、フランス現代思想が最先端の思想的ファッションだった。1960年代にはサルトルの「実存主義」が流行したが、その次に流行したのがレヴィ=ストロースなどの「構造主義」だった。これは思想というより言語学や人類学などの学問で、ファッションにはならなかった。
その次に流行したのが「ポストモダン」である。その中身を理解している人は少なかったが、デリダやフーコーなどを引用して小難しい文章を書くのがファッションになった。今ではそれを覚えている人も少ないが、それは19世紀に始まったニーチェ以来の反・本質主義の一つの到達点だった。

LLMは著者の特権性を解体する
20世紀の思想は、著者の権威を疑ってきた。ロラン・バルトは「作者の死」を語り、ミシェル・フーコーは「作者とは何か」と問うた。ジャック・デリダもテキストの意味を著者の意図に還元する読み方を拒んだ。文章は、書き手の意図だけで決まるものではない。いったん書かれた言葉は、文脈を離れて流通し、別の読者に読まれ、別の意味を帯びる。著者は意味の特権的な支配者ではない。
大規模言語モデル(LLM)は、この「著者の死」を別の形で実現している。LLMの文章には、そもそも著者がいない。モデルを開発した企業や、学習データを書いた無数の人間はいるが、ある出力文について「この文章の著者は誰か」という問いに答はない。プロンプトを書いたユーザーなのか。モデルを作った企業なのか。学習データを書いた無数の著者なのか。あるいはAIそのものなのか。
LLMは、著者という概念を解体する。文章はもはや、一人の主体から発せられるものではない。無数のテキストの痕跡、ユーザーの指示、モデルの統計的構造、企業の設計思想、安全基準、社会的規範が重なって出力される。LLMの文章とは単独の著者による作品ではなく、無数の差異の束である。
LLMが書く文章は、過去のテキストの痕跡が再配置されたものである。この意味で、LLMは完全な創造者ではないが、人間の文章もまた完全な創造ではない。私たちも、過去に読んだ本、聞いた言葉、学校で習った論理、メディアの決まり文句、所属する共同体の価値観を組み替えながら書いている。LLMは、人間の文章がもともと痕跡の集合であったことを、機械的に露出させている。
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