皇位継承は神話ではなく史実にもとづいて議論しよう

「男系の皇統」について多くのリプライがあったので、まとめて整理しておく。これは明治時代に井上毅が決めた皇室典範で初めてできた言葉だが、小林政調会長の「ただの一つも例外がない」というのは明らかに史実と異なる。

最大の反例は、皇祖たる天照大神が女神であることだ。皇統が男系なら神話で男系の正統性を語るはずだが、これは『日本書紀』を編集した持統天皇をモデルにしたといわれる。古来の伝統は女系だったのだ。

ヤマト王権〈シリーズ 日本古代史 2〉 (岩波新書)
吉村 武彦
岩波書店
★★★★☆

「初代天皇」は2人いた

5世紀までの日本には「大和朝廷」という統一国家があったわけではなく、近畿地方に複数の王権が並立していたと考えられる。これを本書はヤマト王権と呼ぶが、その指導者がオオキミだった。その記録を天武天皇の時代に編集し、過去のオオキミにさかのぼって「**天皇」という諡号をつけたのが『日本書紀』である。

したがって天武天皇より前には、同時代に天皇と呼ばれた王はいなかった。その記録には矛盾した神話が混在し、第10代の崇神天皇にハツクニシラススメラミコトという和名がつけられている。これは「初めて国を統治した天皇」という意味だが、神武天皇にも同じ和名がつけられている。

初代という意味の称号が2回使われたのは、『日本書紀』が複数の王家の系譜を編集したからだ。その原典は帝紀とか旧辞と呼ばれているが、そういうまとまった書物があったわけではない。大部分は口頭の伝承を話者が暗唱して伝えたもので、そのテキストにも多くの異本があった。

崇神天皇は古い資料にも出てくるので、これを初代とするのが初期の伝承だと考えられる。それより前の神武から開化までの天皇は旧辞がなく、想像上の人物と考えられる。それ以降も崇神天皇は119歳、応神は111歳、仁徳は143歳というありえない寿命で、この時期に複数の王家が併存し、王位継承をめぐる紛争があったことを暗示している。

世襲の王家は継体以降

実在の人物として疑問がないのは第26代の継体天皇(和名ヲホド)からで、この時期以降は多くの記録に整合性がある。それ以前は複数の王家が近畿地方の各地にあったと思われ、「河内王権」とか「難波王権」などと呼ばれている。

こうした王家の合議で、全体のリーダーとしてオオキミが選ばれた。男女は問わず、世襲でもなかった。したがってヲホドまでは「万世一系」の皇室はなく、男系で継承された記録もない。それ以降も持統天皇などの女帝がいるが、これを「中継ぎ」とするのは誤りである。持統天皇は3代の天皇を指名する大権力者だった。

持統天皇

男系の皇統という言葉は、井上毅の造語である。彼は「女帝はいても男系継承には例外がない」と信じたが、その根拠は『日本書紀』の偽造した系図だった。現在の皇統譜も、1926年に宮内省が男系男子の皇室典範に合わせてつくったものである。今の歴史学の成果をもとにすると、「万世一系」も「男系の皇統」も史実ではない。

こういう皇国史観を個人が信じるのは自由だが、自民党の政調会長が読売新聞で「ただの一度も例外のない男系継承」と公言し、それを根拠に男性宮家の復帰などの皇室典範を改正するのは危険である。それは政治が神話にミスリードされた戦前の歴史を繰り返すものだ。

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