日本人を動かすのは「良心」か「世間の目」か
W杯のたびに、日本人サポーターのごみ拾いが海外で称賛される。たしかに美しい光景である。だが、その美徳は本当に「誰も見ていなくても働く良心」なのだろうか。
日本人の公共道徳は、神の目よりも世間の目で作動しているのではないか。そう考えると、W杯会場のごみ拾いと、コロナ禍のマスク警察、自粛警察、面会制限は、別々の現象ではなく同じ根を持つ問題として見えてくる。

W杯会場の美談に、少しだけ引っかかる
サッカー・ワールドカップで、日本人サポーターが試合後にスタジアムのごみを拾う姿が、また海外で称賛されている。
たしかに美しい光景である。勝っても負けても、観客席に残り、青い袋を手にごみを集める。選手たちもロッカールームをきれいにして去る。海外メディアから見れば、それは驚きであり、日本人の礼儀正しさや公共心の象徴に見えるのだろう。
しかし、ここで一度立ち止まりたい。
日本人は本当に、日常的に他人のごみを拾っているのだろうか。
もちろん、地域の清掃活動やボランティアに参加する人はいる。Jリーグや代表戦のサポーター文化として、ごみ拾いが定着している面もある。学校で教室や廊下を掃除する習慣も、日本人の身体感覚に染みついている。
だが、日本の街が常に清潔かと言えば、そうでもない。繁華街、花見の名所、海水浴場、河川敷、コンビニ前、公園のベンチ周辺を見れば、日本人も普通にごみを捨てる。誰も見ていない場所、誰からも称賛されない場所では、公共心は簡単に薄れる。
つまり、W杯のごみ拾いは「日本人は清潔で道徳的だ」という単純な話ではない。むしろ、そこに表れているのは、日本人の道徳が「場」によって強く作動するという特徴ではないか。
お天道様ではなく、世間が見ている
海外メディアが見ている。日本代表のサポーターとして見られている。日本人らしい振る舞いが期待されている。そういう場面になると、日本人は急に模範的になる。
ここで思い出すのが、「お天道様が見ている」という言葉である。
一見すると、これは神の目に近い。誰も見ていなくても、天が見ている。だから悪いことをしてはいけない。そういう道徳のように聞こえる。
しかし、現代日本で実際に強く働いているのは、「お天道様」よりも「世間の目」ではないか。
神に対する罪というより、世間に対する恥。自分の内面にある倫理というより、「人にどう見られるか」「日本人として恥ずかしくないか」「迷惑をかけていないか」という感覚である。
これは悪いことばかりではない。列に並ぶ。静かに待つ。公共の場所を汚さない。落とし物を届ける。こうした日本社会の良さは、たしかにこの「世間の目」によって支えられてきた。W杯のごみ拾いも、その美しい側面である。
問題は、同じ力が他人を縛る方向に向かったときである。
コロナ対策禍は、世間の目が暴走した社会実験だった
コロナ禍で起きたことは、まさにそれだった。
マスクをしていない人を白い目で見る。営業している店を非難する。県外ナンバーの車を敵視する。感染した人を責める。子どもに黙食を強いる。学校行事を中止しても仕方がないと片づける。病院で家族との面会を奪っても、「感染対策だから」と思考停止する。
それらの多くは、法律で命じられたものではなかった。
日本のコロナ対策は、欧米型の強制的ロックダウンとは異なり、「要請」と「自粛」と「空気」によって動いた。政府や自治体は強制していない形を取りながら、現場では世間の圧力が人々を縛った。
ここに、日本社会の危うさがある。
善行としてのごみ拾いと、私権制限としてのコロナ対策禍は、まったく別のものに見える。しかし、根にあるものは似ている。
それは、「みんながそうしている」「そうするのが日本人らしい」「迷惑をかけてはいけない」という場の倫理である。
W杯では、それがごみ拾いになる。
コロナ禍では、それがマスク警察、自粛警察、面会制限、黙食、行事中止、家族分離になる。
「自分はやる」と「お前もやれ」は違う
ごみを拾うことは良いことである。公共空間をきれいに使うことは、社会を成熟させる。海外で称賛されるのも当然だろう。
しかし、良い行いであっても、それが「やるべき日本人像」になった瞬間、息苦しさを帯びる。
「自分は拾う」は美徳である。
「お前も拾え」は同調圧力である。
「自分は感染対策をする」は自由である。
「お前も黙って従え」は私権制限である。
この違いを見失ったことが、コロナ対策禍の本質だったのではないか。
日本人は公共心が高い。そう言えば聞こえはよい。しかし、より正確には、日本人は「場の空気」によって公共心を発動させる社会に生きている。
だから、空気が良い方向を向けば、W杯会場でごみを拾う。
だが、空気が悪い方向を向けば、病院から家族を締め出し、子どもから給食中の会話を奪い、若者から学校生活を奪い、高齢者を孤独の中に閉じ込める。
誰が決め、誰が解除し、誰が責任を取ったのか
しかも、その責任主体は曖昧なままだ。
誰が決めたのか。
誰が検証したのか。
誰が解除を判断したのか。
誰が被害を引き受けたのか。
この問いが曖昧なまま、「みんなで頑張った」「仕方なかった」「日本人はよく耐えた」という美談に変換されていく。
制度の不合理が生活者にコストを押し付けているのに、行政も専門家も現場組織も、誰も明確なKPIを示さない。これは「我慢してください行政」であり、「善意依存インフラ」である。
W杯のごみ拾いを見て、日本人の美徳を誇るのはよい。だが、同時に考えるべきである。
私たちは、誰も見ていない場所でも正しいことをするのか。
それとも、見られている場所でだけ「正しい日本人」になるのか。
そして、いったん「正しい日本人像」が作られたとき、それに従わない人をどこまで許せるのか。
W杯のごみ拾いは、日本人社会の明るい顔である。
コロナ対策禍は、その暗い顔だった。
美徳と同調圧力は、紙一重である。
だからこそ、ごみを拾う日本人を誇るなら、同じ社会がコロナ禍で何をしたのかも、きちんと見なければならない。
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