責任が伴う「自由」の重さに耐える存在

フランスの哲学者ジャン=ポール・サルトル(1905年~1980年)はその著書「存在と無」の中で「人間は自由の刑に処されている存在」という趣旨を語っている。人間は、路上の石ころのような存在(即自存在)とは異なり、自分を自ら選択していく存在(対自存在)だ。そして自由を放棄することができないから、「刑(罰)に処された存在」というわけだ。

「人間は自由の刑に処された存在」と語ったサルトル(1967年の62歳)、ウィキぺディアから

誰も「自分が生まれたい」と願って生まれてきたわけではなく、人生のガイドライン(神やあらかじめ決められた本質)もない。そのため、どのような生き方をするかは100%自分の選択に委ねられ、その結果の責任もすべて一人で背負わなければならない存在という意味になるわけだ。

ただ、自由に責任が伴わない場合、現代社会でよく見られることだが、自由は放蕩の道を歩みだす。自由を享受する一方、その結果には責任を持たない、といった状況だ。責任が伴わない自由が社会に溢れてきているのを感じるのだ。

「責任が伴わない自由」をもう一歩、踏み込んで表現するならば、カラマーゾフの兄弟の次男イワンの「もし神がいなければ全てが許される」というセリフとなるだろう。

フョードル・ドストエフスキー(1821年~1881年)の最高傑作「カラマーゾフの兄弟」において、次男のイワン・カラマーゾフが「もし神がいなければ全てが許される」と述べる場面がある。もし宇宙を統べる絶対的な神(創造主)が存在しないのであれば、人間が守るべき「普遍的な善」や「絶対にやってはいけない悪(罪)」という基準も存在しなくなる、という意味だ。

サルトルは、「実存主義とは何か」の中で「ドストエフスキーの『神がいなければすべてが許される』という言葉こそ、実存主義の出発点である」と明言している。サルトルはこれを絶望の言葉としてではなく、「人間は神という頼るべき基準を失ったため、自分の行動の責任をすべて自分で背負わなければならない」という、人間主体の生き方を模索する方向に歩み出すわけだ。

その一方、自由には責任が伴うことを認識する人間はその自由から逃避しようとする傾向が見られる。それは全体主義社会だけの現象ではなく、民主主義の社会でもみられる。自由が怖いのだ。だからドイツの社会心理学者エーリッヒ・フロム(1900年から1980年)はその著書に「自由からの逃避」((原題:Escape from Freedom)という題名を付けたのだろう。「自由への逃避」ではなく、「自由からの逃避」だ。

たとえば、ロシアの著名な哲学者アレキサンダー・ジプコ氏は独週刊誌シュピーゲル(2023年7月8日号)とのインタビューの中で、「プーチン氏は生来、自己愛が強い人間だ」と述べる一方、「ロシア国民は強い指導者を願い、その独裁的な指導の下で生きることを願っている。ロシア人は自身で人生を選択しなければならない自由を最も恐れている」と語っていた。

「カラマーゾフの兄弟」の中にはイワンが語る大審問官との論争(叙事詩)がある。大審問官は再臨したイエスに対し「お前が人間に与えた『自由』は重すぎて、彼らを不幸にする。だから私たちは教会というシステムを使い、嘘をついて彼らから自由を奪い、代わりに幸福を与えている」と語る箇所がある。鋭い告発だ。

ドイツ生まれのユダヤ人で、ナチス時代に米国に亡命した政治哲学者ハンナ・アーレント(1906年~-1975年)は米国の雑誌「ザ・ニューヨーカー」の特派員としてエルサレムで開かれたユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)の移送実務を指揮したアドルフ・アイヒマンの裁判を傍聴した。その裁判談をまとめた「エルサレムのアイヒマン」の中に「悪魔の凡庸さ」という表現が記述されている。それに関連し、アーレントは「思考しない悪」を主張しているのだ。

裁判を傍聴したアーレントは、ユダヤ人移送の責任者アドルフ・アイヒマンが、残虐なモンスターではなく「命令に従うことしか考えていない極めて平凡な小市民」であったことに驚く。アイヒマンは裁判では「自分は上司の命令に従っただけだ」と繰り返し答えた。

アーレントは代表作『全体主義の起源』(1951年)において、ナチズムとソ連のボリシェヴィズム・スターリニズムなどの全体主義を分析している。多くの人々が思考停止の状況に陥り、その時のシステムや命令に対して、それが道徳的に正しいかどうかを自分で考えない。その結果、組織のルールや上司の指示に盲従することで、普通の人々が罪悪感を持たずに残虐な行為を行う。アーレントは「自分は命令に従っただけだ」と答えるアイヒマンから「思考停止」が残虐な行為を平気に行った最大の要因だったことを知る。

「エルサレムのアイヒマン」では、 考える自由を恣意的に放棄した場合の恐ろしさが描かれている。盲目的に上から与えられた命令や教えにだけに従って生きることで自由に伴う責任から逃れることはできるが、アイヒマンのように非人道的な蛮行に走る危険性が出てくるわけだ。

人は本能的に自由を希求するが、責任をもって自由を享受することは容易ではない。にもかかわらず、人間は自由を完全には放棄できない。「人間は自由の刑に処されている存在」ということになるのだろう。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2026年6月29日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。

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