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J-CASTニュースの一本の記事を読んで、強い違和感を覚えた。「内田梨瑚被告は懲役27年、川村葉音被告は懲役30年 残虐な犯罪に対して『極刑』でないのは生ぬるいのか」。2026年6月、北海道で相次いで言い渡された二つの判決を取り上げたものだ。
内田梨瑚被告は懲役27年、川村葉音被告は懲役30年 残虐な犯罪に対して「極刑」でないのは生ぬるいのか
一方は、2024年に17歳の少女を車に監禁し、裸にして暴行したうえ、橋から川へ落として殺害したとされる事件である。主犯格とされた被告に懲役27年が下された。もう一方は、江別市の公園で大学生に集団で暴行を加えて死亡させた事件だ。加害者らはその様子を撮影し、被害者のカードで飲食までしていた。主犯格には有期刑の上限である懲役30年。判決の場では「死刑だろ」と叫んだ男が逮捕される一幕もあったという。いずれも「極刑ではない」。
先に断っておくと、私が違和感を覚えたのは判決そのものにではない。記事が判決を擁護するために組み立てた、論の進め方にである。そこには二つの「すり替え」が潜んでいる。前編では、それを順に見ていきたい。
記事の主張はこうだ。量刑を世論の怒りに連動させれば、注目を集めた事件だけが重く裁かれ、報道されなかった事件は軽く扱われる。社会への「見え方」で人命の重さが変わる、いびつな司法が生まれる。だから司法は感情に応えてはならない——。
この警告そのものは正しい。大衆に迎合した私刑のような量刑が危険であることに、異論はない。問題は、その先にある。
ひとつ目のすり替えは、対立軸の立て方だ。記事は、法廷で「死刑だろ」と怒鳴った見ず知らずの男と、「こんなに軽いものなのか」と問うた被害者遺族とを、同じ「感情」の箱に入れている。だが、この二つは質がまるで違う。前者はただの怒号だ。後者には、「許せない」という悲嘆だけでなく、罪と刑が釣り合っているのかという問いが含まれている。これは量刑を考えるうえで中心に位置する論点である。
長時間監禁し、裸にして暴行し、橋から落とす。その残虐さに刑が見合っているのか。この問いは感情の発露であると同時に、まっとうな法律論でもある。それを「感情論」の一語で束ねて片づけるのは、議論の相手を小さく見せるためのやり方にすぎない。
ふたつ目のすり替えは、より根が深い。記事は「量刑は事件の中身によって決まらなければならない」と言う。まったく正しい。問題は、何を「中身」と呼ぶかだ。
死刑を適用するかどうかの事実上の指針とされるのが、最高裁が示した「永山基準」である。そこでは、犯行の性質、動機、手口、結果の重大さ、遺族の被害感情、社会への影響、犯人の年齢や前科など、多くの事情を併せて考えるよう求めている。被害者の数は、その一項目にすぎない。
ところが実務では違う。総合的に考慮するという建前の一方で、被害者の数が量刑を大きく左右する、事実上の最重要因子として扱われてきた。一人なら無期以下、二人で無期か死刑、という「相場」が、いつしか語られるようになった。横並びに置かれたはずの要素の中から、「数」という一軸に主役を与える選択が、どこかでなされてきたのである。
なぜ数だったのか。理由は察しがつく。被害者の数は、数えられる。誰が見ても動かない。対して手口の残虐さは、事件ごとに様相が異なり、比較も数値化も難しい。全国どの法廷でも同じ物差しを使い、裁判官による量刑のばらつきを抑えたい。そう望むなら、最も数えやすい軸に重みを置くのは、無理からぬ発想ではある。現行の運用を支える、それなりに筋の通った論理だ。
だが、ここに落とし穴がある。数えやすいことと、正しく重いことは、別なのだ。測りやすい指標を主軸に据えれば、測りにくいが本質的かもしれない要素は見えにくくなる。一人を長時間いたぶり抜いて殺すことと、二人を瞬時に死なせること。この二つを別のカテゴリーに振り分ける線引きは、客観的な事実ではない。ひとつの価値判断である。
記事は、自分が依拠している物差しを「中立的な事件の中身」と呼び替えることで、その底にある選択を見えなくしている。遺族が問うているのは、まさにこの選択の当否なのだ。
「感情論」も「中身」も、一見すると中立の言葉である。だが、その下には、誰かが選び取った前提が隠れている。それを掘り当てたとき、議論はようやく本当の入口に立つ。そして記事の論証には、もう一つ、最も見えにくいすり替えが残っている。後編で取り上げたい。
尾藤克之(コラムニスト、著述家、作家)
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