
京都の西、太秦を散歩しています。撮影所周辺に別れを告げ、やってきたのは広隆寺。前回ご紹介した蛇塚古墳に埋葬されている渡来系氏族の秦氏(はたうじ)の氏寺として建立されました。もともとはここよりも東、北野天満宮の西の平野神社付近にあり、それがここに移転したという説が有力です。

ちなみに寺の前には嵐電が走っていて、知る人ぞ知る鉄道写真の撮影スポットになっています。

路面電車区間から専用軌道に入っていったところのこのカーブがまたいいのよ。思わず連写でシャッターを切ります。鉄道マニア垂涎ものの撮影スポットです。

鉄道写真はこれくらいにして、通りに面した南大門を潜り広隆寺の中に入ります。こちらの本堂・上宮王院は無料で拝観できますが、その奥にある宝殿を拝観するためには1000円の拝観料がかかります。

本堂を別の角度から。
広隆寺は秦河勝(はたのかわかつ)が聖徳太子から賜った弥勒菩薩を本尊として創建されたといわれています。創建は603年であり、時は飛鳥時代。京都はまだ辺境の地であり都ではありませんでした。そんな土地に創建された広隆寺は日本最古の寺院とも言われています。平安時代からは薬師如来が本尊となるとともに、上記の経緯からか聖徳太子も本尊として祀るようになっています。
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拝観料を支払って、中へ。

国宝第一号である弥勒菩薩像。画像はお借りしました。
国宝第一号である「弥勒菩薩半跏思惟像」など、数多くの仏像の並ぶ宝殿は非公開。ありがたい仏様のお顔を心に焼き付けます。


沙羅の花が美しく咲く。
宝殿の前は初夏の庭が広がります。太陽光に照らされる緑が目に眩しかったです。

広隆寺を出たあとは、再び東へ歩を進めます。嵐電でひと駅なんですが、600メートルほどなので徒歩でも十分です。

やってきたのは、木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)。通称「蚕ノ社」(かいこのやしろ)と呼ばれています。天照御魂神という太陽神を祀り、雨乞いの神として崇められてきました。

この神社が「蚕ノ社」と呼ばれるのは、末社に蚕養(こかい)神社。これが「蚕ノ社」と呼ばれる由縁です。本社より摂末社の方が地名として広まったのは養蚕業が当時の日本にとって極めて重要であったことの現れですね。
前回のブログから何度も登場している氏族、秦氏は織物の技術に優れていました。養蚕の技術を持ち込んだのも秦氏といわれています。飛鳥時代に秦氏が広めた織物の技術が京に根付き、平安時代になると京の産業として朝廷も生産を奨励し、職人を町に住まわせます。それが全国的に有名な西陣織の始まり。蚕ノ社は京都を代表する産業の未来永劫に渡る発展を願う神社として、今日もここで祀られつづけているのです。

「かいこのやしろ」と刻まれる。

「西陳(陣)」の織物の組合であろう「縮縮緬(ちりめん)仲間」が奉納したのだろう玉垣が残ります。
さて、この神社ではもうひとつ見ておかなければならないものがあります。

それが「三柱鳥居」。通常の鳥居は二本脚ですが、こちらは三本脚。その下には石が積み上げられ御幣が立ちます。本来三方から参拝することができる鳥居ですが、ここに立ち入ることはできず柵の外からだけの参拝となります。三角形の下の御幣に神の力が集められ、とんでもない力をいただけるような不思議な気持ちになります。
なお、鳥居の立つ部分は「元糺ノ池」といいます。かつてはここから水があふれ出て神社から流れ出ていました。下鴨神社の「糺の森」の原点はここにあるという説もある由緒正しい場所なのですが、昭和30年代からの急速な宅地化や下水道の整備などの周辺の状況の変化によって水が枯渇してしまったと言われています。現在は夏の土用の丑の日だけ水で満たします。この日に脚を水につけると病気にかからないといういわれがあるのです。

帰りは「蚕ノ社」駅から四条大宮駅に向かいました。養蚕業が盛んな日本にあって「蚕」の名がつく駅はここだけです。
太秦の由緒正しい寺社を巡る散歩。そこにもここにも秦氏の影響があり、改めて太秦に秦氏あり、ということがわかりました。西陣織のルーツにもなったって驚きですね。訪ねるたび新しい発見のある京都。みなさんもぜひ太秦界隈を歩いてまた別の発見をしに来てください。
編集部より:この記事はトラベルライターのミヤコカエデ氏のnote 2026年7月4日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はミヤコカエデ氏のnoteをご覧ください。







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