高市政権は積極財政の姿勢を鮮明にした。7月30日には、食料品の消費税率を2027年4月から2年間、8%から1%へ引き下げる方針を表明した。
高市首相は国債増発には頼らないとしているが、日本の財政が主要国で突出した政府債務を抱えていることに変わりはない。では、この巨額債務をどう処理するのか。大増税でも大幅な歳出削減でもなく、もっと政治的に容易な方法がある。インフレである。

インフレで政府債務は軽くなる
もちろん政府が「インフレで借金を踏み倒す」と公言しているわけではない。しかし結果として、物価上昇率を上回るほどには金利を上げず、名目GDPを膨らませる政策が続けば、それはインフレ税と金融抑圧による債務整理と同じ効果を持つ。
政府債務の持続可能性を考えるうえで重要なのは、債務残高そのものより、いわゆるドーマー条件
r<g
である。ここでrは国債の平均金利(新発債と既発債の平均)、gは名目成長率である。いま日本の政府債務にかかる平均金利は0.8%程度だが、名目成長率は3%程度で、大幅な r<g である。この状態なら、政府債務が減らなくても、名目GDPという分母が大きくなるため、債務GDP比は低下する。
IMFも、日本では当面、名目成長率が政府債務の実効金利を上回るため、政府債務GDP比が2026年の203%から2031年には193%程度まで低下すると予想している。また、日本国債の平均残存期間は約9.5年と長いため、市場金利の上昇が政府の平均利払い費に波及するまでには時間がかかる。
それは政府にとって非常に好都合である。インフレ率が3%、実質成長率が1%なら、名目成長率は約4%になる。それに対して政府の平均金利を2%以下に抑えることができれば、債務GDP比はかなり速いペースで縮小できる。
これは形式的なデフォルトではない。100円の国債は100円で償還する。ただし、その100円の購買力が落ちている。実質的には債務の一部を踏み倒しているわけだ。
財政を支える1100兆円の「貸しっぱなし」
なぜ日本では、そんな金融抑圧が可能なのだろうか。最大の理由は家計である。2026年3月末の家計金融資産は2386兆円。そのうち現金・預金だけで1126兆円あり、前年より増えている。これが金融村の国債購入の原資である。
金融資産の保有は高齢者に偏っている。内閣府によれば、55歳以上が家計金融資産の7割以上を保有し、70歳以上だけでも4割近い。そして日本では、どの年齢階級でも金融資産の6~7割を預金で保有している。
齊藤誠氏は、この日本特有の現象を家計の貸しっぱなしと表現している。政府が借りっぱなしなのに金利が上がらないのは、家計が消費を抑え、預金を持ち続ける貸しっぱなしのおかげなのだ。
これは標準的な経済理論から見ると奇妙である。人は老後のために貯蓄する。しかし老後になれば、その貯蓄を取り崩して消費するはずだ。ところが日本では、老後になってもなかなか使わない。何十年もほぼゼロ金利の銀行預金を持ち続ける。これは自分を窮乏化する負の貯蓄である。
高齢者の預金がインフレ税の対象になる
ここに3%程度のインフレが定着すると、話が変わってくる。預金金利が1%、インフレ率が3%なら、実質金利はマイナス2%である。1000万円の預金残高は翌年も1000万円を超えているかもしれない。しかし購買力は毎年約2%ずつ失われる。
1126兆円の現預金について単純計算すれば、実質金利マイナス2%は年間20兆円を超える購買力の目減りに相当する。これがそのまま国庫に入るわけではないが、政府は固定金利で発行した国債の実質価値が低下し、名目税収が増え、債務GDP比も低下する。
つまり預金者の実質資産減少と政府の実質債務減少が同時に起こる。過去数十年、年金や医療などを通じて高齢世代への大規模な所得移転が続いた。その高齢世代に金融資産が集中している以上、インフレ税は結果的に、その移転の一部を逆方向に戻す。
分配上の公平性について議論はあるだろう。しかし「高齢者の預金に毎年2%課税する」と法律で決めるより、物価3%、預金金利1%という状態を作るほうが政治的にははるかに容易であり、現実的である。
「貸しっぱなし」が続けば財政は意外に強い
ここに日本財政の逆説がある。家計が経済合理的に行動せず、「実質金利がマイナスでも銀行預金でいい」と考え続けるなら、政府には巨大な安定資金が供給され続ける。預金者にとっては自己窮乏化だが、日本政府にとっては強力な財政基盤なのだ。この状態を利用して、
国債の平均金利<インフレ率
という金融抑圧を長期間続ければ、日本政府は増税やデフォルトを避けながら、長期間かけて債務GDP比をかなり圧縮できる。ここで国債金利を平均2%、インフレ率を3%とすると、実質金利はマイナス1%だから、実質債務は毎年10兆円以上減る。
「日本は政府債務が大きいから、いつか突然破綻する」という議論より、こちらのほうが現実的なシナリオではないだろうか。

最大のテールリスクは家計が合理的になること
ただし、この戦略にも弱点がある。家計がある日、「貸しっぱなしでは損をする」と気づくことである。NISAの普及などで投資信託への資金流入は増えている。これが外貨建て投信などへの大規模なキャピタルフライトに発展すると
円安→ 輸入インフレ→ 円資産からの逃避→ 国債金利上昇
という悪循環に入る可能性がある。実際、7月には円が一時1ドル=164円近くまで下落し、約40年ぶりの安値圏となった。また10年国債利回りも7月9日に2.9%まで上昇した。市場はすでに、日本のインフレと財政運営を意識し始めている。
ここで r>g になると、これまで政府を助けてきた力学が逆転する。巨額の政府債務に高い金利がかかり、利払い費が増える。財政再建のために増税・歳出削減が必要になるが、政治がそれを拒否すれば、日銀に国債を買わせて金利を抑える誘惑が強くなる。つまり財政支配である。
最悪の場合は大インフレで債務整理
1981年、Sargent-Wallaceは有名な論文で、財政政策が持続不可能な状態では、中央銀行が金融引き締めを続けることにも限界があると指摘した。
政府が財政赤字を是正しないと、最終的には中央銀行が貨幣発行で政府債務をファイナンスせざるを得ず、将来のインフレがかえって大きくなる可能性がある。日本について言えば、
家計の「貸しっぱなし」が終わる
→円と国債から資金が逃げる
→国債金利が上昇し r>g になる
→政府債務が増える
→日銀が国債をマネタイズする
→円安とインフレが加速する
という経路である。政府債務が無限に膨張し続けるわけではなく、最後には円の価値が下落し、物価水準が上昇することで実質政府債務が強制的に圧縮される。これは現在のメインシナリオではない。テールリスクだが、確率はゼロではない。
問題は「インフレ税をどこで止められるか」
高市政権の積極財政は、名目成長率を高めるという点では、巨額債務を抱えた日本政府にとって合理的な面を持つ。デフレ時代のように名目GDPが増えない状態より、3%程度の名目成長が続くほうが財政は楽になる。
問題は、それを支えているのが実質成長だけではなくインフレであり、しかも国債金利をそれ以下に抑える必要があることだ。家計が「貸しっぱなし」を続ける限り、この戦略はかなり長く維持できるかもしれない。その場合、日本財政は破綻しない。
しかし1000兆円を超える家計預金、とりわけ高齢世代が蓄積してきた円建て金融資産の実質価値が少しずつ削られる。これが日本型の財政再建になる可能性は十分あるが、政府がそれを当然のものとして財政規律をさらに緩めれば話は別である。
日本財政を最後に支えているのは、法律でも日銀でもない。マイナスの実質金利でも円預金を持ち続ける家計の「貸しっぱなし」である。それがいつまでも続く保証はない。
高市政権のインフレ税への船出が穏やかな金融抑圧で終わるのか、それとも円への信認を損ない、Sargent-Wallaceの「不快な算術」へ向かうのか。その分岐点は政府債務の大きさではなく、日本人がいつまで円を貸しっぱなしにするかにある。






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