
毎年夏になると我々日本人は「ポツダム宣言」(「宣言」)と、45年8月15日正午にその受諾を国民に伝えた昭和天皇の玉音放送を思い出す。それゆえ筆者を含む大多数の日本人は、「ポツダム会談」(「会談」)で議論された「宣言」が同年7月26日に日本政府に「送達」されたと考えがちだ。が、実際は「会談」の議事録に「宣言」の文字はない。
こうした、日本人による「宣言」に関する思い違いは、「宣言」がポツダムで出されたこと、そして「宣言」に係る多くの文献が「会談」の枕詞として、「ポツダム会談の主たる議題はドイツの取り扱いを含む欧州問題」などと記していることにも由来するのではあるまいか。
本稿は『戦後の誕生 テヘラン・ヤルタ・ポツダム会談前議事録』(以下「同文献」)を参考に、「会談」のどの場面で日本がどのように話題に上ったかを述べるのだが、前記の枕詞も「同文献」からの引用である。つまり、「主たる議題」とあれば、誰しも「従たる議題」として「ポツダム宣言」の議論もなされたと思うことだろう。
その「会談」は45年7月17日から8月2日にかけて、ベルリン郊外ポツダムのドイツ皇太子ヴィルヘルム(ヴィルヘルム2世の子)が暮らしたツェツィーリエンホーフ宮殿で行われた。出席者は、米国:トルーマン大統領、バーンズ国務長官ら5名、英国:チャーチル首相、アトリー副首相、イーデン外相ら5名、ソ連:スターリン首相、モロトフ外相ら4名である。英国代表は27日の第10回会談から、総選挙でチャーチルを破り首相の座に就いたアトリーとペヴィン外相に代わった。
13回行われた「会談」の日時と議題は以下のようである。
- 第1回(7月17日):議長選出、議題、外相理事会、今後の進め方
- 第2回(7月18日):外相理事会、ドイツの定義、ポーランド(ロンドン政府解体など)、ドイツ管理理事会の活動原則
- 第3回(7月19日):ドイツ艦隊と商船、フランコ下のスペイン、ユーゴスラヴィア
- 第4回(7月20日):外相理事会、イタリア、衛星国、オーストリア
- 第5回(7月21日):ポーランド(ロンドン政府解体・ドイツ東部の事実上の占領)、住民の移動、ドイツ西部への石炭・食糧供給
- 第6回(7月22日):ポーランド西部国境、ドイツ人住民の移動、石炭・食料、信託統治(ソ連要求)、ソ連・トルコ関係、イタリアの捕虜収容所
- 第7回(7月23日):経済原則、トルコ、モントルー条約、ケーニヒスベルク、レバノン・イタリア・イランからの撤兵、ウィーンへの食糧供給
- 第8回(7月24日):イタリアと衛星国国連加盟・承認・外交関係、黒海海峡、国際水路、賠償、ポーランド西部国境
- 第9回(7月25日):チェコ、ポーランド、ポーランド占領地区からのドイツ人移動、石炭・食料、ノルウェーの捕虜
- 第10回(7月28日):近衛特使についてスターリンの情報提供、イタリアと衛星国の国連加盟、イタリアとオーストリアからの賠償
- 第11回(7月31日):賠償、ポーランド西部国境、衛星国などの国連加盟、ドイツ管理の政治経済原則、住民移動、戦争犯罪人
- 第12回(8月1日):賠償とドイツ資産、ベルリンへの物資供給、ドイツ管理理事会、経済原則、戦争犯罪人
- 第13回(8月1~2日):ドイツからの賠償、議定書・コミュニケの修文
議題からおおよその議事内容が推測できるが、その一部を補足すれば・・
外相理事会:敗戦国との平和条約問題を米英ソ仏中の外相が討議する理事会。第一次大戦のヴェルサイユ会議が事前準備不足で紛糾した反省から設置された。
- ドイツ管理理事会:ドイツは米英仏ソに分割占領されたが、その管理における政治経済の原則の基準が合意された。
- ポーランド問題:ドイツに占領されたポーランドはロンドンに亡命政府を立てたが、45年7月にポーランド国民統一臨時政府が米英に承認され、亡命政府は解体された。他方、ソ連はドイツ領占領に際し、そこにポーランド人を引き入れ行政当局を作った。が、これに米英が反発、ドイツと接する西側国境の問題が深刻化した。
- 黒海海峡:ソ連はダーダネルス・ボスポラス海峡の商船や軍艦の航行について36年に定めたモントルー条約に不満を示し、米英はその改正に同意した。ソ連は更に、スエズ運河とパナマ運河を各々英軍と米軍が守っていると主張、黒海海峡付近に軍事基地を設け、軍艦の自由航行を主張したが、米英は合意しなかった。
- 信託統治領:ソ連が信託統治領を得たいとし、旧イタリア植民地(リビア、エリトリア、ソマリア、エチオピアなどの主にアフリカ諸国)を念頭に協議したが、国連で討議すべしとされた。
- ドイツ住民の移動問題:ポーランド、チェコ、ハンガリーから数百万のドイツ人住民が追放されることとなり、チャーチルはこれについて、移住はやむを得ないが、秩序だった人道的なものであるべしとした。
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さて、日本についての言及だが、それは第3回会談で「ドイツ艦隊と商船」に関連して初めてなされた。その要旨は以下のようだ。
チャーチル:対日戦争へのドイツ商船隊の活用は相当な役割を果たし、戦争を早く終わらせる可能性がある。我々は、兵員、空軍、海軍の人員数は足りているが、人員を移動させ、物資を移送する手段が足りないから。更に、商船隊は英国の島々や解放された欧州諸国に食料を送るのにも必要だ。もしドイツ商船隊120万トンが使えないなら、私は大変残念だ。
トルーマン:我々は我が艦隊を、部隊の移動のみならず、欧州への物資輸送にも使っている。このドイツ艦隊のすべてを対日戦争のために残すことを強く望む。
次の日本言及は第6回会談の「ソ連・トルコ関係」と第7回会談の「黒海海峡」関連でなされた。要旨はこうだ。
チャーチル:トルコの問題はモントルー条約改正に関係するので重要だ。英国は改正に賛成であり、それは署名国の合意によって可能である。もちろん日本を除く。
モロトフ:黒海海峡問題について、ソ連は同盟諸国に繰り返しモントルー条約の改正を求めてきた。この条約下のソ連の権利は、日本の天皇の権利と同じで、我々には現状に適合しないように思える。
スターリン:今のモントルー条約下では、ロシアは黒海海峡において日本の天皇と同じ権利を持っている。馬鹿げているが、事実だ。その結果、英国が支持する小国(*トルコ)が大国(*ソ連)の喉元を抑え、出口を塞いでいる。問題はソ連海運に黒海通過の可能性を与えるかどうかである。トルコは自由航行を保障するには弱すぎるので、ソ連が武力でそれを守るようにしたい(まさに今、ホルムズ海峡で起こっている事事を彷彿させる)。
最後が第10回会談の「近衛特使についてのスターリンの情報提供」である。朝からの会議で、モロトフから25日と27日の外相会合の報告があった。報告が済んだ11時、スターリンからトルーマン議長に「あと1時間働けるか」と提案があり、トルーマンは「大丈夫だ。12時まで仕事をしよう」と応じて、以下が述べられた。
スターリン:ロシア代表団が日本から受け取った新しい提案をお知らせする。(今まで)何らかの文書が日本について作成された時にそうすべきであったのに、ソ連代表団には知らされなかった。が、互いに新しい提案について知らせ合うべきだと考える。<通訳が英語で以下を読み上げた>。
7月13日、佐藤大使は、モスクワに近衛公を送るとの日本政府の提案を提出する光栄を持った。その後、大使は、明確な(definite)提案がなされていない故に、そのアプローチに明確な回答をする可能性を認めないとの回答を受け取った。物事を正確にするため、次の通り伝達する。
佐藤大使からの伝達
近衛公の使命は、ソ連政府に現在の戦争を終わらせるために仲介の役割を果たして欲しいと要請し、この関連での日本の完全な立場を伝達することにある。彼はまた戦時中および戦後の日ソ関係についても交渉する権限を与えられている。同時に大使は、近衛公は天皇陛下より、ソ連政府に戦争中の当事者によるこれ以上の流血を避けたいとの陛下のひたすらな要望であることを伝える任務を与えられていることを繰り返し述べた。以上に鑑み、大使はソ連政府が彼の要請に好意的な注意を払うよう希望した。大使は近衛公が日本で占めている地位をソ連政府は知っていると付け加えた。
スターリン:この文書には新しい点はない。ただ一つの提案があるだけである。日本は我々に協力を提案している。我々は彼らに過去にそうしたと同じような精神で回答することを考えている。
トルーマン:我々は反対しない。
アトリー:我々は同意する。
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冒頭で筆者は、「宣言」が「日本政府に『送達』されたと考えがち」としたが、拙稿「ポツダム宣言に施された日本降伏遅延の仕掛け(前・後編)」では「宣言の発表」とした。なぜなら、「送達」と「発表」あるいは「発出」とでは次のような違いがあるからだ。拙稿では、「送達」しないことで、日本側に「宣言」を軽んじさせる意図が米国側にあった、としたかったのである。
- 送達(serve):公的機関が重要書類を法定の方式に従って関係者に交付し、確実に知らせる公的手続き。
- 発表(release): プレスリリースや公式文書、通達などを世に出すこと(いわば出しっ放し)。
- 発出(issue):命令や通知、公式な文書などを正式に外部へ出すこと(同上)。
「同文献」にも付録として「ポツダム会談と日本」の項があるので、それに若干触れて稿を結ぶ。
縷説した通り対日問題は、正式会談では第10回会談でスターリンが近衛公のモスクワ訪問提案を紹介したことなどに限られる。が、「同文献」は「正式会談以外の場で日本に大きな影響を与えた事柄があった」とし、要旨以下のように「宣言」に触れている。その詳細は前述「ポツダム宣言に施された日本降伏遅延の仕掛け」を参照願う。
- 日本が降伏に際し受諾した「宣言」は7月26日、ポツダムで「発出」された。
- 8月6日に広島に原爆が投下されたが、その決定があったのもポツダムである。
- ソ連の対日参戦について、「会談」当初、米国はそれを重視したが、原爆実験の成功により、その重要性は小さくなった。米国に、原爆で日本に降伏を強制し得るとの考えが出てきたのである。
- 日本が「宣言」受諾に際し、最も重要視したのは国体の護持だった。日本政府は8月10日、「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含しおらざることの了解の下にこれを受諾する」と回答した。
- これにバーンズ国務長官が「日本の最終的政治形態はポツダム宣言に従って日本国民の自由に表明された意思により樹立されるものとする」と回答した。
- それを受けて8月14日、日本は「宣言」を受諾した。







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