同志社国際高校の沖縄研修中に、生徒ら2人が死亡した事故をめぐり、日教組の梶原貴中央執行委員長が産経新聞のインタビューに応じた。
梶原氏は、学校の計画について「私ならああいう計画は立てない」「子供を預かる教育現場としてずさんな計画で、学校が責めを負うのは当然だ」と批判した。
この指摘自体は妥当だろう。高校生を辺野古移設に反対する団体の抗議船に乗せる以上、学校には通常の校外学習以上に厳格な安全確認が求められる。
しかし、梶原氏の発言には大きな矛盾がある。
同志社国際高校だけを批判して終わりなのか
梶原氏は抗議船について、「安全面から乗せるのはどうなのかという思いがある」と述べた。その一方で、辺野古を訪れる平和学習は「むしろやるべきだ」とし、日教組にとって平和教育は「存在意義そのもの」だと強調している。
つまり、事故の責任は同志社国際高校に負わせながら、事故の背景にあった平和教育の内容や思想的な偏りについては、ほとんど検証しようとしていない。
問題は船の安全管理だけではない。学校教育の一環として、特定の政治的立場を取る団体の抗議船に生徒を乗せたこと自体が適切だったのかも問われている。
見学と政治運動への接近は同じではない。
「運動方針はバランスがよい」で済むのか
日教組の教育研究全国集会では、日本兵の加害行為を生徒に演じさせる授業などが、優れた平和教育の実践として紹介されてきた。
戦争の加害と被害を学ぶことは必要だ。しかし、特定の場面だけを強調し、生徒に強い感情を抱かせる授業が本当にバランスの取れた歴史教育なのかは疑問である。
梶原氏は、現場には「ちょっと偏っている」といわれる事例があるかもしれないと認めながら、「うちの運動方針は極めてバランスよく仕上がっている」と説明した。
しかし、問われているのは日教組の文書上の方針ではない。実際の学校現場で、どのような授業や研修が行われているかである。
平和教育を聖域にしてはならない
日教組にとって平和教育が「存在意義そのもの」であるなら、なおさら批判や検証を拒んではならない。
同志社国際高校の計画を「ずさんだった」と切り捨てるだけでは不十分だ。なぜ教員たちは抗議船に生徒を乗せることに疑問を持てなかったのか。平和教育という目的が、安全面や政治的中立性への判断を鈍らせなかったのか。そこまで検証する必要がある。
平和教育そのものを否定する必要はない。しかし、平和という言葉を掲げれば、どのような教材や訪問先、活動方法でも許されるわけではない。
生徒は、教員や労働組合の政治的信念を実践するための道具ではない。
日教組が本当に平和教育を守りたいなら、「偏っていない」と自己弁護する前に、同志社国際高校の事故を自らの問題として受け止めるべきだ。








コメント