エイベックスの松浦勝人会長が始めたnoteが、話題になっています。松浦氏は「お金の話」「僕には友達がいない」「貸しレコード屋の原点」「100億円払った苦い経験」など、自身の人生を題材にした記事を次々と投稿し、フォロワーは2万人超、「スキ」も累計5万を超える大きな反響を集めています。
ところが松浦氏は、これらの記事をほぼAIを使って作っていることを明かしました。ここで面白い問題が浮かび上がります。では、この文章を作ったのは誰なのでしょうか。
AIが書いたら「松浦勝人の記事」ではないのでしょうか
当然ながら、「AIが書いた文章なら読みたくない」という反応もあります。本人が書いたと思って読んでいた人からすれば、戸惑うのも無理はありません。作家の小説を買ったら、実際にはAIが大部分を書いていたとなれば、「誰が作ったのか」は作品の価値にも関わってきます。しかし松浦氏の場合、問題はもう少し複雑です。松浦氏は、書かれている出来事について「全部本当にあった話」だと強調しています。
考えてみれば、「100億円を失う」という話をAIは文章にできても、100億円を失う経験そのものは生成できません。 貸しレコード屋からエイベックスを立ち上げ、日本の音楽産業の中心で何十年も仕事をしてきた経験も同じです。AIが持っているのは文章力です。松浦氏が持っているのは人生です。この二つを混同してはいけません。
書くといった能力の価値は急速に下がるのか
生成AI以前、「文章を書ける」という能力にはかなりの希少価値がありました。頭の中にある出来事を整理し、構成を考え、読みやすい日本語にして数千字の記事にするだけでも、かなりの労力が必要でした。
ところがAIは、この部分を猛烈な勢いでコモディティ化しています。話した内容を渡せば構成を作り、冗長な部分を削り、タイトルを考え、読みやすく整えてくれます。だとすれば今後問われるのは、「誰が文章を書いたか」ではなく、「文章になる前の何を持っているか」ではないでしょうか。これはクリエイティビティの定義をかなり変えます。
そして、このようなことは文章だけでなく、映像や音楽などの分野でもすでに起こり始めています。
AI時代には「経験」が希少資源になる
誰でも2000字のきれいな文章を書ける時代になれば、きれいな文章そのものには価値がなくなっていきます。むしろ価値が上がるのは、AIが持っていない材料です。現場で見たもの、人間関係で失敗したこと、大金を稼いだこと、大金を失ったこと、会社を作ったこと、誰かを売り出したこと、判断を間違えたこと。つまり一次情報としての人生です。
これは有名人だけの話ではありません。町工場を30年間経営した人、海外で20年間営業した人、介護の現場にいた人、子どもを3人育てた人、10回転職した人。それぞれがAIには存在しないデータを持っています。
これまで、その経験を持っていても「文章が苦手だから発信できない」という人は多くいました。AIはそこを埋めます。そう考えると、生成AIはクリエイターを消すというより、なにかを制作する技能とクリエイティビティを切り離す装置なのかもしれません。
「AIに熱狂は作れない」は本当か
今回のnoteは、その問いに対するひとつの実験にも見えます。文章のかなりの部分をAIが生成していても、そこに投入される素材が松浦勝人という人間の60年間であれば、多くの人が読むのです。だとすればクリエイティビティとは、手を動かして文章を書くことではなくなってしまうのかもしれません。
何を見るか。何を経験するか。何を面白いと思うか。そして膨大な経験の中から、何を他人に伝えるかを選ぶことです。 AIは文章を生成できます。しかし「100億円を払って痛い目を見るべきだ」とプロンプトを入力しても、その人生まで代わりに経験してくれるわけではありません。
AI時代に希少になるのは文章ではなく「その人にしか語れないこと」です。 松浦氏のnoteが面白いのだとすれば、それはAIの切り口や文章力がすごいからだけではありません。AIにはない「松浦勝人の人生」という巨大な物語があるからなのでしょう。








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