
赤根智子所長
ICC HPより
米国政府は8月18日、国際刑事裁判所(ICC)の赤根智子所長を制裁対象に指定しました。米国内資産の凍結や米国人・米国企業との取引禁止など、実質的に米国の金融システムから排除する措置です。
これに対し外務省は、「我が国はICCを一貫して支持してきている」とした上で、「大変残念」と表明しました。しかし、制裁撤回を求めることも、「不当」「報復」と非難することもしていません。
もちろん、非公開の外交交渉や本人への支援が行われている可能性はあります。ただ、少なくとも公的な姿勢は極めて抑制的です。
今回問われているのは、ICCの個々の判断の是非ではありません。司法機関での職務を理由として裁判官個人を国家が経済制裁することを、日本が法治国家として容認するのか。そこが本質です。
ICCの判断が正しかったかは別問題
ICCに対しては批判もあります。2024年にはイスラエルのネタニヤフ首相らに逮捕状が出された一方、シリアやイランなどで起きている戦争犯罪や人道に対する犯罪などの重大な国際犯罪を十分に扱えていないとの指摘もあります。
しかし、ICCには管轄権の制約があります。パレスチナはローマ規程の締約国であり、ICCはガザ、西岸、東エルサレムについて領域管轄権を認めています。
一方、シリアやイランは非締約国です。国連安全保障理事会による付託、当該国によるICCの管轄権の受諾、あるいは締約国の領域などとの管轄上の接点がなければ、原則として同じようにICCが管轄権を行使することはできません。
ICCの判断を批判することは当然できます。しかし、その判断を批判することと、ICCで職務を行う裁判官や職員個人を経済制裁の対象とすることは別問題です。法の支配の下では、司法判断への異議は法的手続によって争うのが原則です。
法的問題
米国の主な法的根拠は、国際緊急経済権限法(IEEPA)です。IEEPAは、国外に源を持つ「異例かつ並外れた脅威」が米国の安全保障や外交政策などに存在する場合、外国人の資産や取引を規制する強い権限を大統領に認めています。
トランプ大統領は大統領令14203号で、ICCによる米国人やイスラエル人への捜査・逮捕・訴追などを、米国への「異例かつ並外れた脅威」と認定しました。
さらに米政府は、他国にICCからの離脱を促す外交圧力や追加制裁なども含む対ICCキャンペーンを打ち出し、ICCの活動能力そのものを弱める姿勢を明確にしています。
しかし、条約に基づく国際裁判所の司法活動そのものを国家的緊急事態と扱うことには疑問があります。外国人資産の凍結自体はIEEPAが想定する制裁手段ですが、非常権限を自国に不利な司法機関の弱体化にまで利用してよいのか。米国内法上も検証されるべき問題です。
また、ICCの法的根拠であるローマ規程第70条は、裁判所職員が職務を行ったことを理由とする報復を「裁判所の運営に対する犯罪」の一類型として規定しています。
今回の制裁が最終的に第70条に該当するかについては、管轄権を含め慎重な法的判断が必要です。しかし、少なくとも単なる外交的不快感の表明とはまったく性質が違います。
「法の支配」の逸脱
法の基本原則には、「何人も自らの事件の裁判官であってはならない」という考え方があります。
しかし、米国はICCの活動について直接の利害当事者です。司法判断に異議を唱えるだけでなく、その司法機関で職務を行う裁判官を個人的に制裁し、裁判所自体を弱体化させようとすれば、それは法的異議から司法への強制へと性質が変わります。
さらに米国は、ロシアのプーチン大統領へのICC逮捕状については支持してきました。敵対国に対するICCの判断は支持する。しかし、自国や同盟国が対象になれば国家的脅威として制裁する。それでは「法の支配」ではなく、外交上の立場によって法の扱いを変えていることになります。
ロシアには「不当」、米国には「残念」のダブルスタンダード
2023年、ロシアが赤根氏を指名手配した際、日本政府はICCでの職務を理由に関係者個人へ「報復的な措置」を取ることは「不当」だと明確に表明しました。ところが今回は「大変残念」です。
刑事指名手配と経済制裁では法形式も危険性も異なります。しかし、ICCでの職務を理由として裁判官個人に国家が不利益を与えるという核心は共通しています。
相手がロシアなら「報復的で不当」、米国なら「残念」。これでは、日本が掲げる「法の支配」の意味が問われます。
またこれは、日本の外交・司法政策の自律性にも関わる問題です。
赤根氏は日本政府が候補者として送り出した人物です。また、日本は2007年からローマ規程の締約国で、ICC協力法を制定し、財政面でも大きな分担金を負担してきました。
つまり今回の問題は、単なる邦人保護ではありません。日本自身が主権的判断で参加し、法律を整備し、人材と資金を提供してきた国際司法制度が、第三国の経済力によって圧力を受けている問題です。
米国の金融・ITインフラへのアクセス遮断を恐れて、日本国内で合法なICCへの支援まで萎縮するなら、日本の条約政策や規制上の自律性にも実質的な圧力が及びます。
もちろん、日本政府が日米関係全体を考え、静かな外交を選ぶことも主権的判断です。問題は、その沈黙が自ら選んだ「外交上の選択」なのか、それとも米国への配慮によって事実上選択肢を狭められた結果なのかです。
結論:日本政府は「残念」の先を示すべき
日本が守るべきなのは、赤根氏やICCの個々の司法判断ではありません。裁判官が、その職務を理由として国家から個人的な報復を受けないという司法独立の原則です。
相手が米国だから「大変残念」で終わるのであれば、日本のICC支持は「負担と人材提供はするが、米国と衝突すれば守らない」というものになってしまいます。
日本政府は、個々のICC判断への評価とは切り離して、司法官への職務上の報復に反対する原則を明確にし、制裁撤回を求めるべきです。同盟国に対しても法的原則について異議を述べられることこそ、独立した主権国家同士の関係です。
今回問われているのは、日本が「法の支配」を大国に対しても貫けるのか。そして、自ら選んだ国際秩序を自ら守る意思があるのか。その一点だと思います。
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平尾 正憲
平成生まれ、東京都三鷹市在住。現役世代の負担増と将来世代への責任を軸に、社会保障、税制、行政改革などを論じる。寛容と現実主義に基づく保守本流の言論を目指す。







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