
(前回:日本ラリーの細い道:勝田貴元はなぜフィンランドへ行かなければならなかったのか)
勝田貴元選手のWRC初優勝は、日本のモータースポーツにとって大きな快挙だった。
前回は、その勝利を入口に、なぜ勝田選手がフィンランドで鍛えられなければならなかったのかを考えた。ラリーは「道」の競技であり、世界で勝つには世界の道を走らなければならない。日本にも山道はある。しかし、WRCへつながる日常は国内だけでは足りない。

だが、この問題はラリーだけに限らない。
レース、フィギュアスケート、スノーボード、スケートボード、BMX、ゴルフ、乗馬。こうした競技には共通点がある。才能があっても、入口に立つまでのハードルが高いのだ。

俗な言い方をすれば、部活にないスポーツほど「親ガチャ」化しやすい。
もちろん、選手本人の努力を軽く見るつもりはない。むしろ逆である。トップに立つ選手は、本人の才能と努力がなければ絶対に届かない場所にいる。問題は、その才能が競技に出会い、練習環境を得て、指導者と大会に接続されるまでを、社会ではなく家庭が担っていることである。
野球やサッカーには、学校や地域に入口がある。少年野球、サッカー少年団、部活、地域クラブ、強豪校、ユース。もちろん、そこにも格差はある。遠征費、用具代、親の送迎、クラブ費用は重い。だが少なくとも、「近所の学校や地域から始める」という道が残っている。
一方、カートやラリー、フィギュアスケート、ゴルフは違う。普通の学校生活の中で自然に出会うことは少ない。親が情報を探し、場所に連れて行き、道具を買い、指導者を見つけ、遠征費を出し、時には海外経験まで用意する。競技への入口が、家庭の経済力、時間、情報力、理解に強く左右される。
部活にある競技は、社会が入口を用意している。
部活にない競技は、家庭が入口を用意する。
この差は大きい。
レースの世界では、親がカート場に連れて行かなければ始まらない。フィギュアスケートでは、リンク、コーチ、衣装、遠征、振付、靴に費用がかかる。ゴルフも同じだ。練習場、コース、レッスン、大会参加には家庭の支えがいる。
こうした競技は、ある意味で歌舞伎の世襲に似ている。
歌舞伎は、単に家柄だけで成立しているわけではない。幼い頃から稽古し、舞台に立ち、身体で芸を覚える。その環境に早くから入れること自体が大きな力になる。外部から入る道があっても、家庭や家の力が強くなるのは避けがたい。
レースやフィギュアにも似た構造がある。幼少期から始めるほど有利で、専門施設が必要で、指導者が限られ、費用がかかる。競技内の情報も外から見えにくい。そうなると、競技は自然に「家業化」する。
これを「親が熱心だから」で済ませてはいけない。社会が入口を作っていないから、家庭が入口を代替しているのである。
海外の強いスポーツを見ると、この差はさらに見えやすい。
サッカーは、世界の多くの地域で低所得層からスターが生まれる。ボール一つ、路地、空き地、学校、地域クラブ。ブラジル、アルゼンチン、欧州の移民街、アフリカ諸国。もちろん現代サッカーも商業化され、アカデミー化されている。それでも、競技への最初の入口は比較的広い。
スケートボードも本来はそうだった。板一枚と街があれば始められる。米国西海岸のストリート文化、ローカルパーク、ショップ、仲間、映像、スポンサー。そこには、学校スポーツとは違う成り上がりの回路があった。
ところが日本では、同じスケボーでも話が変わる。競技としては世界で勝つ選手が出る。しかし日常では、公園で禁止、駅前で禁止、広場で禁止となりやすい。街で滑れば迷惑。転べば危ない。音がすれば苦情。結局、専用施設や家庭のサポートに寄っていく。
日本は、完成した才能は称賛する。だが、才能が未熟なうちに転び、失敗し、時に周囲と摩擦を起こしながら育つ過程を嫌う。
ここに、日本のスポーツ観の癖がある。
日本ではスポーツが、しばしば競技ではなく人格教育として扱われる。挨拶、礼儀、服装、上下関係、感謝、謙虚さ。部活文化の長所でもあり、息苦しさでもある。
エクストリームスポーツは、この文化と相性が悪い。スノーボード、スケボー、BMXには、もともとストリート、自由、反抗、自己表現の匂いがある。服装、音楽、言葉遣い、仲間内のノリまで含めて文化である。そこに「代表らしく」「礼儀正しく」「清潔に」という基準を強くかけると、競技の根っこにある荒さが削られる。
2010年バンクーバー五輪の国母和宏選手の騒動は、その象徴だった。問題にされたのは競技そのものではなく、服装や態度だった。国母選手への評価は人によって分かれるだろう。しかし、あの騒動が示したのは、日本社会がエクストリームスポーツの選手にも、まず「ちゃんとしていること」を求めるという事実である。

日本では、選手は勝つ前に、まず「ちゃんとしている」ことを求められる。
それが悪いとは言い切れない。礼儀正しく、謙虚な選手は見ていて気持ちがよい。だが、すべての競技が部活的価値観に合うわけではない。危険を引き受ける競技、街や自然から生まれる競技、既存の型を壊す競技には、多少の荒さや逸脱が必要なこともある。
問題は、荒さを野放しにすることではない。危険を管理しながら、自由を許す場所を作ることだ。
スケートパーク、BMXパーク、カート場、安価なサーキット走行枠、地域のクラブ、初心者向けの安全な練習環境。そうした入口がなければ、才能は家庭の中でしか育たない。家庭が用意できる子だけが早く始め、強い指導者に出会い、海外へ出る。
それでは、競技は広がらない。
勝田貴元選手のような成功例は希望である。だが同時に、そこまでの環境がなければ世界へ届きにくい現実も見せている。レースでも、フィギュアでも、スケボーでも同じだ。日本は才能を持つ子どもを称賛する。しかし、才能が競技に出会う入口を社会で十分に用意しているとは言い難い。
部活にないスポーツが「親ガチャ」になるのは、親が悪いからではない。社会が入口を作らないからである。
日本は、完成した才能だけを欲しがってはいないか。
メダルを取った選手だけを称賛し、その選手が育つまでの場所、費用、失敗、自由を家庭に押しつけていないか。
冒険するスポーツを文化にしたいなら、必要なのは説教ではない。
「ちゃんとしろ」と言う前に、転べる場所を作ることだ。







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