国有地「9割引き」は本当に問題か:人口減少社会で見えない「放置コスト」

国が引き取った土地を、最大で9割以上値下げして売る。

この話だけを聞けば、ずいぶん乱暴に見える。

SNSでは、「相続時には高く評価して税金を取り、国が手に入れた途端に二束三文で売るのか」という批判も出た。

しかし、調べてみると話は少し違った。

相続税評価額と実際の売却価格は同じものではない。さらに相続土地国庫帰属制度は、相続税を払えなかった人から国が土地を没収する制度でもない。

相続などで土地を取得した所有者が自ら申請し、審査を受け、承認されれば負担金を納めて国へ引き渡す制度である。負担金は、国がその土地を管理する10年分の標準的な費用を考慮して算定される。

つまり、むしろ逆なのだ。

所有者が、お金を払ってでも手放したい土地がある。

そして国が引き取ってみたら、今度は国も簡単には売れない。

ここで私は別の疑問を持った。

誰も買わない値段を、国はいったい何年守り続ければ正しいのだろう。

900万円は見える。20年は見えない

仮に1000万円と評価された土地があるとする。

1000万円では誰も買わない。500万円でも買わない。しかし100万円なら買いたい人が現れた。

このとき、100万円で売ることは900万円の損失なのだろうか。

もちろん、国有財産を恣意的な安値で特定の誰かへ渡してよいはずはない。透明な評価と公平な手続きは必要である。

それでも、適切に市場へ出して買い手が現れないのであれば、その事実自体が情報を発している。

価格は、守ること自体が目的なのではなく、需要を知るためのシグナルでもある。

財務省も2026年6月、国庫に帰属した土地について新たな管理・処分方針を示し、「地域における活用の促進と行政コストの低減」を図ることが重要だとしている。

売れない土地を国が持ち続ければ、その間も管理費はかかる。

1000万円の土地が100万円で売れれば、「900万円も安くなった」と誰でも気づく。数字として見えるからだ。

では、1000万円という値札を守った結果、誰にも使われないまま20年が過ぎた場合、その20年間の損失は誰が数えるのだろう。

そこに誰かが住めたかもしれない。店を開けたかもしれない。農地なら、別の誰かが耕せたかもしれない。

もちろん、そうなった保証はない。

しかし土地が動かなければ、次の誰かが試す可能性そのものが生まれない。

そして、ここまで書いておいて何だが、実は私の実家にも20年ほど使っていない土地がある。

私の実家にも、20年使っていない田んぼがある

山の上にある、半反ほどの田んぼだ。

祖母が元気だった頃までは米を作っていた。しかし山の上なので、水を引くにはポンプが必要になる。祖母が高齢になり、自力で歩くことも難しくなってから、実家で米を作る人はいなくなった。

両親はいまでも家の庭の畑を趣味で熱心に耕している。それでも、この田んぼには行かなくなった。

そして20年が経った。

田んぼへ続いていた林道は、いまではすっかり山の一部に戻っている。

車はもちろん、人が歩いて入ることもできない。

もう一度田んぼとして使おうとすれば、田んぼを整備する前に、まず道から作り直さなければならない。

しかも、その林道は我が家の土地ではない。周囲の山まで我が家が一体で所有しているわけでもない。その中にある半反ほどの一角だけが、我が家の農地として残っている。

登記簿を見れば、そこには今でも農地がある。

しかし現実の農地は、田んぼ一枚だけでは成立しない。

道がいる。水がいる。管理する人がいる。

その連鎖が切れると、土地は「使われていない状態」のまま保存されるわけではない。道が荒れ、入りにくくなり、再び使うための費用が上がっていく。

20年前なら誰かに耕してもらう選択肢があったかもしれない。今では「使いたい」という人が現れても、まず山道を復旧し、水を引くところから始めなければならない。

私自身、この問題の当事者側なのである。

だから、使われていない土地の所有者を責めたいわけではない。「使わないなら売ればいい」の一言で片付かないことくらい、私にも分かる。

むしろ怖いのは、普通の家族が普通に暮らしているだけでも、土地はこれほど簡単に社会の利用可能なストックから脱落していくということだ。

「誰の土地か」が分かっても、土地は動かない

政府も、この問題を何も考えていないわけではない。

2024年には相続登記が義務化された。相続土地国庫帰属制度も、将来の所有者不明土地の発生を予防する制度として位置づけられている。

しかし、私の実家の田んぼは所有者不明ではない。

誰の土地なのかは分かっている。

それでも20年間、動かなかった。

「誰の土地なのか」の次に、「その土地をどう次へ動かすのか」という問題がある。

人口が減る社会で、使える土地を眠らせたまま別の場所へ住宅や街を広げれば、人が減っても道路や上下水道などのインフラは残る。

国土交通省の分析でも、人口密度が低い地域ほど、住民一人当たりの行政コストが高くなる傾向が示されている。

道路も消防も、除雪が必要な地域なら除雪も、住民が半分になったからといって翌日から半分にはできない。

土地が薄く使われれば、残った人がより広い社会基盤を少ない人数で支えることになる。

つまり土地が動かないことによる損失は、単なる機会損失ではない。

すでに作ってしまった社会を維持する費用として、残った人の財布にも返ってくる。

これは地方だけの問題でもない。

東京でも、空き家や老朽住宅が貸されず、売られず、次の利用者へ渡らなければ同じことが起きる。

形は違っても、問題は土地が次へ動かないことにある。

税金は、罰金ではない

だからといって、使っていない土地に片っ端から重税をかければいいわけでもない。

実家の田んぼに高い税金をかけたところで、消えた林道は復活しない。買い手が現れるとも限らない。

重要なのは、土地を「使っているか、使っていないか」だけで判定しないことだと思う。

使う。管理する。貸す。売る。老朽家屋なら撤去して次の利用者へ渡せる状態にする。

こうした行動を取りやすくする。

こうした考え方の一部は、すでに空き家政策にもある。

「管理不全空家」などとして勧告を受けると、住宅用地の税負担軽減措置から外れる仕組みだ。

重要なのは増税そのものではない。

「使っていない土地に課税する」のではなく、「土地を死蔵する方が得」という状態をなくす。

役所が土地の正しい用途を一つひとつ決める必要もない。

政策が整えるべきなのは、使い道そのものではなく、土地が次の状態へ動ける条件だと思う。

何のために政策があるのか

ただし、ここには線を引いておきたい。

土地を動かすというのは、日本中の土地を経済利用せよという意味ではない。原生林や自然度の高い山林、湿地まで切り開いて収益化する話ではない。

問題にしているのは、すでに宅地や農地、事業用地などとして人間社会の利用ストックに組み込まれながら、使われず、次の利用者にも渡らない土地である。

むしろ考え方は逆だ。

新しい自然を切り開く前に、すでに切り開いた土地を使い切る。

既存の住宅を使えるなら使う。造成された宅地があるなら、まずそこを循環させる。耕作できる農地なら、耕したい人へ渡しやすくする。

どうしても利用を維持できない土地なら、無理に経済利用を続けず、管理された形で自然へ戻す選択肢があってもいい。

ここで政策の目的と手段を取り違えてはいけないと思う。

高く売ることも、税金を取ることも、土地を流通させることさえ目的ではない。

人口が減っても、人が暮らし、働き、必要なインフラを維持し、守るべき自然も守れる国土を残すこと。

そのために価格があり、税制があり、規制がある。

政策の道具を守るために社会があるわけではない。

20年で、道は消えた

国が土地を9割近く値下げすれば、私たちはすぐその損失に気づく。

900万円が消えた、と数字で見えるからだ。

しかし、土地を使わない時間は数字になりにくい。

私の実家の田んぼは、20年間そのまま保存されていたわけではなかった。

20年で、道は消えた。

国有地の管理費も、地域のインフラ維持費も、私の田んぼを再び使うための費用も、見え方は違う。

しかし、どれも「土地が止まっている時間にはコストがある」という点では同じだ。

人口減少社会では、土地の値下がりだけを損失として数えるのではなく、土地が使われなかった時間についても考える必要があるのではないか。

9割引きなら、損失額はすぐ計算できる。

では、

使われなかった20年には、いくらの値札を付ければいいのだろう。

コメント投稿をご希望の方は、投稿者登録フォームより登録ください。

コメント