最近、誰かにかけた言葉:その言葉、本当にあなたの言葉ですか?

最近、誰かにかけた言葉を思い返してみる。その多くは、相手にとって心地よいものではなかったかもしれない。

じつは、上っ面の言葉が苦手だ。見渡せば、世の中には薄っぺらい言葉があふれている。最近は、そうした言葉を集めたような本も多い。耳ざわりがよく、誰も傷つけず、そして何も残さない言葉である。読み終えて、何が書いてあったか思い出せない。言った本人も、翌日には忘れているだろう。

困るのは、そうした言葉が広く出回るほど、誰もが同じことを言い始める点だ。どこかで聞いた言い回しを、何度も口の中で噛み直しては吐き出す。まるで反芻動物のようである。言葉が借り物になると、話し手の顔が見えなくなる。誰が言っても同じ言葉は、誰も言っていないのと変わらない。

借り物の言葉は楽である。考えなくても口から出るし、言ってしまえば場も収まる。だが、使い続けるうちに、自分で考える筋肉が落ちていく。やがて、何を聞かれても手元にある定型句で返すようになる。それは会話ではなく、ただの応答である。

だから私は、阿り(おもねり)やゴマすりができない。相手の機嫌を取るための言葉を選ぼうとすると、どうしても口が重くなる。結果として、遠慮せずに思ったことを伝える場面が多くなる。ほめるべきところはほめる。ただし、ないものは言わない。それだけのことだ。

それで誤解を招くこともある。冷たい人だと思われたり、角が立ったりすることもあるだろう。それでも、この伝え方を変えるつもりはない。上っ面の言葉は、相手の時間を使いながら、相手に何も手渡さないからだ。時間を奪っておいて手ぶらで帰す。それは礼儀ではなく、礼儀の格好をした怠慢である。

遠慮のない言葉は、ときに相手を戸惑わせる。だが、そこには少なくとも、私自身が考えた中身がある。受け取った側が反発してもいい。反発できるだけの手ごたえがあることのほうが、よほど誠実だと思う。耳ざわりのよい言葉には、反発する足場すらない。

裏を返せば、私自身にも、そうした上っ面の言葉は必要ない。120%必要ない。取り繕ったほめ言葉をもらっても、うれしいと感じるより先に、中身のなさが気になってしまう。欲しいのは、耳に痛くても、その人の頭で考えた言葉である。そういう言葉は、何年たっても残っている。

最近、あなたが誰かにかけた言葉は、自分の言葉だっただろうか?

尾藤克之(コラムニスト、著述家、作家)

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