
ロシアがウクライナに侵攻した直後、当時の岸田文雄首相は、「今日のウクライナは明日の東アジアかもしれない」という有名な言葉を発した。これは、欧州で起きた戦争が東アジアの安全保障問題にも直結し得ることを示唆したものである。すなわち、ウクライナ戦争が何らかの形で東シナ海や南シナ海での紛争、あるいは台湾有事につながる恐れがある、という主張だ。
ここで、将来の紛争や有事を引き起しかねない挑戦国として想定されているのは、中国にほかならない。要するに、この命題は、ロシアのウクライナ侵攻が中国による大胆な現状変更行動を促すかもしれない、という予測である。
同時に、そうした東アジアへの悪影響を防ぐためには、プーチン政権を厳しく非難し、制裁を科すとともに、ウクライナを手厚く支援することによって、北京に対して「同じような行動に出れば、深刻な代償を払うことになる」という警告を発する必要がある、という政策的含意も持っている。
「今日のウクライナ、明日の東アジア」論が検証されるべき理由
ウクライナ戦争が始まって4年半近くが経過した今、問われるべき重要な問題の一つは、岸田首相が掲げたこの命題は、果たして正しかったのか、ということである。
この政治スローガンは、その後の石破政権の対ロシア政策を方向づける考え方であり続け、高市政権にもその基本的な枠組みが引き継がれていると考えられる。さらに、日本による総額3兆円を超えるウクライナ支援を正当化する論理の一つにもなってきた。
それだけに、この命題の妥当性は、厳密に検証されるべきである。もし、その前提となる仮説が十分なエビデンスによって裏づけられないのであれば、日本が国益を損なう政策を選択してしまったことも否定できない。誤った前提に基づく政策は、望ましい結果をもたらしにくい。
残念ながら、私の知る限り、日本の国際政治学界では、この重要な命題を厳密に実証しようとした研究はほとんど見当たらない。それどころか、頑健なエビデンスが十分に示されていない理論的スローガンを、肯定的に受け入れてきた「国際政治学者」も少なくない。
もちろん、進行中の出来事から将来の帰結を予測する際、精度が十分でない仮説に頼らざるを得ない場合はある。しかし、この命題には、当初から慎重な検討を要する理由がいくつもあった。
そもそも、国家は相手の動きを「過去の行動」ではなく「直面するバランス・オブ・パワーと利害関係」から計算するという有力な学説もある。それにもかかわらず、十分な批判的検討を行わずにこの標語を受け入れたのであれば、問題である。
政治活動家ではなく、実証的な知識の生産を担う学者として行動するならば、「今日のウクライナは明日の東アジア」論には、より慎重かつ批判的に向き合うべきだったのではないか。
ウクライナ戦争と東アジアの安全保障
「今日のウクライナは明日の東アジアかもしれない」という仮説については、海外の政治学者が社会科学の方法論に基づく実証研究を行っている。
リチャード・マイリック氏(デューク大学)とチェン・ワン氏(アイダホ大学)は、ロシアのウクライナ侵攻に対する米国の対応が弱腰だと受け止められた場合、中国側の台湾に対する態度が変化するのかどうかを、サーベイ実験によって検証した。その結果は、少なくとも彼らが検証した条件の下では、否定的なものだった。
中国共産党員を含む中国のエリート層に近い人々は、ロシアの侵攻に対する米国の対応を弱腰だと評価する傾向を示した。しかし、だからといって、台湾をめぐる危機でも米国が同様に弱腰になると予想し、中国が台湾に対してより強硬な態度を取るようになる、という関係は確認されなかったのである。
この研究は、「今日のウクライナは明日の東アジア」という命題を支える重要な因果メカニズムの一つ、すなわち、ある地域での米国の弱い対応が、別の地域における中国の行動を大胆にさせるという仮説に、疑問を投げかけるものだ。
この研究成果は、「今日のウクライナは明日の台湾? 国際危機を横断した米国の評判と抑止を評価する」というタイトルの論文として、国際関係論の主要学術誌 International Studies Quarterly に掲載された。
もちろん、権威ある学術誌に厳しい査読を経て掲載されたことは、研究結果が完全に正しいことを意味しない。また、この研究は台湾を対象としており、東シナ海や南シナ海を含む東アジア全体に、その結果をそのまま一般化することもできない。さらに、調査対象者の回答から導かれた結論であって、習近平政権の最高意思決定層が実際にどのように判断しているかを直接明らかにしたものでもない。
それでも、中国と台湾の双方が、ウクライナと台湾の相違点を強調してきたことを踏まえれば、この研究は軽視できない。少なくとも、「ウクライナで米国が弱腰になれば、中国は台湾に対して大胆になる」という因果関係を、当然の前提として扱うことはできないのである。
要するに、この論文は、岸田首相の命題が依拠する論理の一部に、重大な疑問を突きつけている。
疑わしい政策が、なぜ頑固に続いてしまうのか
「今日のウクライナは明日の東アジア」論が十分に成り立たないのであれば、ウクライナ戦争と東アジアの安全保障を、強引に結びつけるべきではない。日本のウクライナ政策についても、その前提となる理論の妥当性を改めて検討する必要があるだろう。
しかし、4年以上にわたって継続されてきた政策が、簡単に修正されるとは考えにくい。政策決定者は、一度採用した信念や政策の前提を更新することが必ずしも得意ではない。首相や高級官僚、政策アドバイザーも例外ではない。そこには、確証バイアスをはじめとする認知上の傾向が作用し得る。
確証バイアスとは、既存の信念や仮説を支持する情報を相対的に重視し、それに反する情報を軽視したり、十分に検討しなかったりする傾向を指す。自分の信念に反する情報に接すると、認知的不協和などの心理的な不快感やストレスがしばしば生じる。その不快感を解消しようとして、人は自分の信念を修正するよりも、反証となる情報を退ける傾向にある。
もっとも、すべての政策決定者が必ずこうした思考を行うわけではない。また、政策が継続される理由を、確証バイアスだけで説明することもできない。組織の慣性、官僚機構の利害、同盟国との関係、国内世論、政策変更に伴う政治的コストなども、考慮する必要がある。
それでも、「今日のウクライナは明日の東アジアかもしれない」という命題が歴代政権の政策判断で繰り返し用いられてきたことを踏まえれば、首相官邸や永田町、霞が関において、これが強固な政策上の前提となっているのだろう。
また、メディアなどを通じて、このスローガンは一般市民にも広く浸透してきたと考えられる。こうした世論を政治家が考慮せざるを得ないことも、政策の継続を促す一因となり得る。
その結果、当初の仮説を支えるエビデンスが十分でないと判明しても、日本のウクライナ政策は容易には変わらないのかもしれない。
アメリカからの外圧と政策変更
一方、日本は、海外からの圧力や働きかけに反応して政策を変更する傾向があるともいわれる。とりわけ、日本の安全保障を大きく左右する米国の政策転換や、その明示的・暗示的な圧力は、高市政権のウクライナ政策を変える要因になるかもしれない。
第2次トランプ政権は、ウクライナへの直接支援のあり方を見直すとともに、軍事情報の提供などを交渉上の手段として利用し、ゼレンスキー政権にロシアとの戦争終結を受け入れるよう圧力をかけてきた。米国の政策が今後どのように推移するかは不確実だが、少なくとも、バイデン政権期と同じ形でウクライナを支援し続けないだろう。
これまで、G7の一員として日本と米国は、対ロシア制裁とウクライナ支援を進めてきた。しかし、米国が従来の政策から距離を置くのであれば、日本もその影響を免れない。
米国の政策転換が日本の対外政策にどのような影響を与えるか、現時点で確実な予測はできない。それでも、日本政府が「ウクライナに寄り添い、ロシアに厳しく接する」という従来の方針を、少しずつ見直す見込みはある。
ただし、そのような政策変更が実際に起きるとしても、それは必ずしも「今日のウクライナは明日の東アジア」論の誤りが認められた結果とは限らない。米国の政策への追随、対ロ関係の再評価、日本自身の安全保障上の優先順位など、別の要因によって説明できるかもしれない。
引き出すべき教訓
論理的な根拠も実証的な裏づけも十分でない「今日のウクライナは明日の東アジアかもしれない」というスローガンが、なぜ日本の対外政策を方向づける考え方になったのだろうか。この標語がどのような過程で形成され、どのアクターがどの程度関与したのかについては、政策決定過程の分析が必要である。
一つの可能性として、多くの日本人が、プーチン大統領は侵略を厭わない危険な独裁者であり、隣国の習近平国家主席も同じく独裁者なのだから、中国も侵略戦争を始めかねないと考えたことが挙げられる。その結果、日本に近い東アジアにも戦争が波及するのではないかという恐怖が生まれ、十分に検討されないまま、このスローガンは受け入れられたのかもしれない。
しかし、独裁者という共通点だけから、ロシアと中国が同じような対外行動を取ると推論することはできない。指導者の政治体制や性格だけでなく、軍事力、地理的条件、経済的相互依存、同盟関係、予想される戦争のコストなどを分析する必要がある。実際、独裁的な指導者と民主的な指導者の好戦性についても、体制の違いだけで一律に結論づけることはできない。
同時に、「ウクライナに寄り添い、ロシアを批判することは道徳的に正しい」という規範的な雰囲気が政界や言論界では強かった。そうした環境では、ウクライナ支援そのものを疑問視していると受け取られることを恐れ、政策の前提となる因果仮説を批判的に検討することが難しくなったのかもしれない。
さらに、この標語や類似の言説に異論を唱えることが、日本社会において「親露派」というレッテルを貼られ、異端者扱いされるリスクも恐れられていた。そうであれば、この命題の妥当性を問い直すことには、相当な心理的・社会的コストが伴ったことになる。
しかし、ここで忘れてはならないのは、多くの人々から道徳的に正しいと見なされていることと、その主張が事実として正しいことは、まったく別だという点である。そして、通念や政治的な空気を疑い、主張をエビデンスによって検証することこそ、学者が担うべき重要な役割の一つである。
S・ヴァン・エヴェラ氏は、政治学の研究方法を論じた著書で、社会科学者には、必要であれば有力者や世論にとって不都合な事実を指摘し、知的流行に安易に追随しない姿勢が求められると論じている。
「社会科学には、必要ならば嫌われ役になる義務がある。……口やかましい者か有力者を……冷静にさせることはわれわれの仕事の一部である。……歓迎されない事実を述べることにかわって知的流行を追う態度をとることは、思いとどまるべきである」。
S・ヴァン・エヴェラ『政治学のリサーチ・メソッド』勁草書房、2009年、120ページ
この指摘は、「国際政治学者」にも当てはまる。政治的な通念を繰り返すことではなく、その前提を問い、反証の可能性を検討し、競合する説明と比較することが、社会科学者としての責務だからだ。
仮に、日本が将来、戦争や武力紛争に直接巻き込まれることになったとしよう。その際、十分に検証されていない政治スローガンが、信頼性の低い理論や一部のエリートの直観に支えられ、さらに「御用学者」によって擁護・拡散され、政策として実行されるならば、日本の国益は深刻なまでに損なわれる危険性がある。
こうした事態を避けるために必要なのは、政治的な主張を安易に信じるのではなく、その証拠を確かめ、論理を検証するという基本的な態度である。そして、それを可能にするのは、学者が「歓迎されない事実」を実証し、公然と論じることのできる自由な言論空間だ。
日本の国際政治学界や言論空間が、こうした批判的検証を十分に促してきたのかについては、改めて問い直すことは少なくとも必要だ。







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