台風の日の記憶

台風の進路予想が出ると、まず頭に浮かぶのは移動の予定と締め切りである。気圧配置を見るより先に、来週の予定表のほうを開いている。台風そのものではなく、台風が自分の都合に何をするかを見ているわけだ。子どもの頃はそうではなかった。あの頃の台風は、こちらに得をもたらすものだった。

台風のさなかは家の中で待つしかなく、子どもにとって楽しい時間ではない。楽しみは、通り過ぎたあとにやってくる。得は二つあった。水と時間である。

台風が通り過ぎると、道路が冠水していることがあった。車が走り、大人が行き交う場所が、半日だけ子どもの領分に変わる。そこへボードを持ち出して遊んだ。見慣れた道がまるで別の顔を見せる。

いまの大人が見れば止めるだろうし、止めるほうが正しい。水の下に何があるかは分からない。それでもあのときの高揚だけは消えない。道が道でなくなる時間は長くない。水は数時間で引き、翌朝には元の道に戻っている。その短さも含めて特別だった。

もうひとつは時間だ。授業がなくなれば、その日はそのまま放課後になる。時間割で区切られていた1日が、まるごと自由に使える1日に変わる。台風一過の青空の下なら、なおさらうれしい。

知らせが誰からどう届いたのかは思い出せないが、受け取った瞬間の軽さだけが残っている。やることのない1日を持て余したこともあったはずだが、覚えているのは得をしたという感覚のほうである。

いま思えば、この二つの得は、どちらも誰かの損の上に乗っていた。私が遊んだ水は、どこかの家の床下に入った水と同じものである。授業がなくなった日は、誰かが前の晩に判断し、翌日に後片付けを引き受けた日でもある。

得と損は別の場所で起きているように見えて、同じ一つの出来事の裏表だった。子どもの私は、帳簿の得の側だけを見ていた。損の側は、見る必要がなかった。

今年は台風の多い年だった。気象庁の統計によると、2026年の発生数は10月28日時点で31個。年間の平年値は25.1個だから、年が明ける前に平年の1年分を超えている。一方で日本への上陸は3個で、平年の3.0個とほぼ同じである。

発生は記録的に多いのに、上陸はいつもの年と変わらない。海の上で生まれ、海の上で消えた台風のほうが多かったということになる。発生の数は、そのまま誰かの損の数にはならない。

大人になるにつれて、人は損の側に移っていく。予定の組み直し、片付けの段取り、翌日の連絡。得を数える欄は、いつの間にか帳簿から消えている。予定が流れて時間が空いても、それは別の用事に吸い込まれ、1日がまるごと空くことはない。子どもの頃の休校は、代わりに何かをしなければならない時間ではなかった。ただ空いていた。大人の1日から、そういう空き方は消えた。

ただ子どもの現金さを笑う気にはならない。起きてしまった台風は、損の側に回ったところで取り消せない。取り消せないものの中から自分の得を見つけ出すのは、むしろ難しいことである。

後片付けをしながら得を数えろとは言わない。それでも損の側に立つ日が増えたからといって、見つける習慣まで手放す理由はない。大人になって失うのは、台風そのものへの好意ではなく、その技術のほうだと思う。

今年も31個の台風があった。どこかの子どもが、冠水した道か、授業のなくなった1日の中で、得を数えていたのだろうか。その子はいずれ損の側に回る。台風の日の記憶がいまも不思議な色をしているのは、たぶんそのせいである。

尾藤克之(コラムニスト、作家)

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