
葬儀が終わるまではまだいい。いやよくはないけど忙しすぎて何も考えられない。役所、銀行、親戚への連絡。気づけば法要の日取りを決めている。本番はそのあとにやってくる。後悔というラスボスが。
「あのとき言いすぎた」
「もっと会いに行けばよかった」
「話をちゃんと聞けばよかった」
わかっている。今さら悔やんでも1ミリも変わらない。わかっているのに頭の中で「もしもあのとき」が無限ループする。セーブポイントからやり直せるなら何回でもやり直したい。でもこの世界にロードボタンはない。
で、後悔がレベルアップすると罪悪感になる。
「お母さんが嫌がったから手術をやめたけど無理やりにでも受けさせるべきだった」
「海外になんか行かなきゃもっとそばにいられたのに」
こうなると悲しむことすら自分に許さなくなる。自分には悲しむ資格なんかないと思い込む。
介護の現場でも同じことは起きる。利用者様を見送ったスタッフが「もっと何かできなかったか」とひとりで反省会を開いている。プロですらこれだ。家族ならなおさら「施設に預けたのは正しかったのか」「自分の都合ばっかりだったんじゃないか」と自分を裁判にかける。原告も被告も裁判官も自分。勝てるわけがない。
まわりは言う。「よくやったよ」「十分だったよ」。ありがたい。ありがたいけど届かない。だって唯一それを判定できる人がもういないんだから。
……書いていてだんだん腹が立ってきた。誰にってその裁判の仕組みにだ。あのときの判断はあのとき手元にあった情報とあのときの事情で下したものだ。結果を知っている今の自分が当時の自分を被告席に座らせるのはどう考えてもアンフェアだろう。後出しジャンケンで勝ってうれしいか?
いや冷静になろう。悲しみ、安堵、解放感、後悔、罪悪感。この5つは順番に来ない。全員同時に来るし日替わりでも来る。号泣する日があって妙に穏やかな日があって自分を責める日がある。そのたびに「私おかしいのかな」と思う。おかしくない。親と真剣に向き合ってきた人の心がこう揺れるのは仕様だ。
でもやっぱり言わせてほしい。後悔の1つひとつはあなたが親のために何ができたかを考え続けた跡だ。それを自分を殴る道具にするのはもうやめにしないか。少なくとも今日くらいは。
※ ここでは、本編のエピソードをラノベ調に編集し直しています。
尾藤克之(コラムニスト、作家)
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『親を見送って、はじめて自分の人生が始まる 介護と別れの先にある「これから」の30年』(上野 利惠子 著)きずな出版
■ 採点結果
【基礎点】 39点/50点(テーマ、論理構造、完成度、訴求力)
【技術点】 19点/25点(文章技術、構成技術)
【内容点】 19点/25点(独創性、説得性)
■ 最終スコア 【77点/100点】
■ 評価ランク ★★★ 標準的な良書
■ 評価の根拠
【高評価ポイント】
・テーマの普遍性:多くの人が30代から60代で迎える親の死を扱い、誰もがいずれ向き合う出来事を正面から取り上げている。
・語られにくい感情への着目:悲しみの陰にある安堵や解放感を「冷たさ」と切り捨てず自然な反応として示し、読者が抱えがちな罪悪感をほどく視点を持つ。また、平易な言葉で読者に寄り添っている。
【課題・改善点】
・事例の厚み:「多くの人が」「少なくありません」とまとめる記述が中心で、1人の具体的な場面を追う描写が少ない。構成の重なりも多く、節の役割分担がはっきりしない個所がある。
・実践的な手がかり:感情を肯定するところで止まっており、その感情とどう付き合うかの具体的な方法はこの範囲では示されていない。
■ 総評
親を見送った人が抱く安堵や孤独や後悔を冷たさの表れではなく自然な心の反応として受け止める一冊であり職業柄聞き取ってきた声を交えた平易な語り口は読者の罪悪感をほどく力を持つ。一方で事例の多くが「多くの人が」という形でまとめられて個別の場面の厚みが乏しく後悔を扱う節が前後で重なるなど構成にも整理の余地がある。具体的な向き合い方の手がかりが加われば親を亡くした直後の読者にとってより頼れる伴走書になるだろう。








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