法治国家をあきらめる? ポスト3.11と中国に似てゆく日本

2011年05月08日 21:18

菅直人首相による浜岡原発の停止「要請」に対しては賛否両論がありますが、批判の有力な論拠のひとつが「法的根拠に基づかない首相のスタンドプレーであり、『法の支配』に反する」というもののようです。このことに関して寄稿依頼をいただきましたので、「そもそも日本は法治国家なのか」を歴史的に考えてみます。


まず確認しておくべきなのは、しごく大雑把に言って、「法の支配」はそもそも人類普遍の現象ではないという史実です。英国のマグナカルタ(1215年)に典型的なように、それは「封建貴族の既得権益」を君主に認めさせるところから始まった(その手段が身分制議会=立法府の設立)、特殊西欧的な政治体制であり、最初から東アジアには当てはまらないのだと思っておいた方がよいでしょう。

法治国家でない国としてとみに名前が挙がるのは中国ですが、これは当然のことで、中華帝国では皇帝の集権化が達成された宋朝(960-1279年)の時点で封建貴族は一掃され、「自由選挙」(ただし投票ではなく試験による)で選抜された官吏のみで行政府を構成する、科挙制度と郡県制(地方統治を、中央から短期で派遣された官吏が行う仕組み)の体制が成立しました。要するに、そもそもマグナカルタを突きつける前に貴族層が全滅したので、法の支配や議会政治といった形では、王権の恣意的権力行使を抑制できない。そのために生まれたのが、朱子学(朱熹は南宋時代の人)に代表される、「万能の君主に“有徳者であること”を義務づける」儒教思想の系譜であり、法治主義に対して「徳治主義」と呼ばれる仕組みです。

翻って日本はどうかというと、古代貴族(お公家さん)が荘園の実効支配権を失って早期に没落する一方、戦国時代の半ばから武士も城下町に集住させられて在地領主ではなくなったため、やはりマグナカルタの担い手たりうるような「封建貴族」は解体されていたといえます。つまり初期条件としては「法の支配」を欠く中国に近かったのですが、一方で江戸時代には「藩」単位で領地の世襲が認められたため、中国と異なり統治者も被治者も比較的狭い地域で、子孫代々同じ面子が顔をつきあわせて暮らす社会が生まれた(西欧のFeudalismとは異なる、「郡県制」の対義語としての封建制)。結果として、みんなが顔見知りだからなんとなく互いの行動が読めるので、逐一議会を通して普遍性のある法制定を行わなくても、そこそこに各自の取り分が守られる仕組みができました。法治・徳治に比すなら「村治主義」とでもいうべき無原則かつ無思想なシステムですが、近代化にあたってもこれが生き残り、地域ぐるみの集票を通じて戦前は政友会・戦後は自民党という巨大保守政党を支えてきました。

現在の日本で進行しているのは、この「法治主義」の不在を代行してきた「村治主義」の解体の最終局面にあたります。2009年に自民党は政権から追い出され、長期不況の下で属する村を持たない「無縁社会」の蔓延が進み、ついに3.11の地震・津波と原発事故で大量の国内難民を出してしまった。「とりあえず同じ地域に住み続ければ、明文化されたルール(法治)なんかなくてもなんとなく安全」という前提が崩壊してしまった以上、残る選択肢として中国と同様の「徳治主義」が浮上するのは自然なことでしょう。つまり、道徳的に「正しい」人物をリーダーに据えて、法律だ何だには一切こだわらずに「正しい」行動をガンガンとっていただき、ただし彼が不道徳な行いをした時だけはみんなで罵声を浴びせてご退場願おう、ということです。ここ数年来の、政策論議よりもスキャンダル暴露の方が政局を動かし、政治論争がしばしば人格攻撃になり、かつ地方首長のような「一人だけのトップ」の言動の方が国会議員のそれより注目を集める現状は、まさにその表れといえるのではないでしょうか。

かくして、菅直人首相の浜岡原発停止要請は、西洋型の「法治国家」の観点からは問題があるとしても、中国型の「徳治国家」のそれとしては、きわめて自然な行為ということになります(もちろん、伝統中国の儒学史が党争に彩られてきたように、原発がどの程度「道徳的」な施設かをめぐっては、存続容認派と反ないし脱原発派とのあいだで、果てしない論争が続くことになるでしょう)。もちろん、ここで「法の支配」のメリットを安易に譲るべきではないとは思いますが、しかし歴史的に見れば「もともと法治国家でなかった国が、その代行モードを村治から徳治に切り替えただけ」ともいえるので、ひょっとすると私たちは法治国家になる西洋化の夢をあきらめて、中国と同様の徳治社会に入ることを覚悟するべき時が来ているのかもしれません。

與那覇潤(愛知県立大学准教授/日本近現代史)

(補記その1):“「法治主義」は実定法全能主義のような悪い意味であって、「法の支配」一般とは異なるものだから混用するな”というご指摘をいただきましたが、「村治主義」なる造語と併称しているとおり、本稿は厳密な法哲学のエッセイではありませんので、ご海容ください。中国社会論等の分野で一般に見られる、「徳治」(ないし人治)の対としての「法治」の語法です。

(補記その2):“徳治で行動しているのは政治家くらいのもので、企業はきちんと法治を実現したからこそ欧米圏でも活躍している”とのご意見について、分野ごとの違いはもちろん重要です。一方で、(よくも悪くも)株主の法的権利ではなくステークホルダー間での利害調整を重んずる「日本的経営」のガバナンスや、一企業の内部で完結し使用者とも妥協的な(ゆえにあまり機能しない)労働組合のあり方などは、経済の分野でも「村治主義」のインフラが機能していることを示すものと思います。特に前者が、企業のグローバル化にあたって海外市場との摩擦の要因となる所以です。

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