東京電力の事後処理案は事後ではない

小幡 績

これは以前も議論したとおり、必罰であるのは、将来のためである。法令に則って物事を処理する、信賞必罰とするのは、それが組織、社会に将来の安定性をもたらすからである。
安定性をもたらすルートはいくつかあるが、重要なのは、第一に、事前のルールどおり処理、信賞必罰することによって、プレイヤーが今後もルールに従って行動することである。これにより、プレイヤーの参加も保証されるし、プレイヤーの周りもルールに従った行動を予見してその行動からの影響に備えることになるからである。第二に、第一の点をさらに発展させた論点だが、dynamic consistencyの問題、あるいはrenegotiation freeの問題は現実には必ず生じるが、それを回避するためにcommitmentを得ることが可能になるからである。


第二の論点は、アカデミックなフレームワークだが、それをやや濫用している(厳密なアカデミックな議論と異なるがあえてここで使っている)ので(論点は単純なのだが)、少し解説したい。Renegotiation freeとは、例えば二者が契約を結んで何か事業を行っていたとき、その結果が出た後に、必ずその結果をめぐって利益(損失)の配分を変更しようというインセンティブが生じるということである。つまり再交渉のリスクである。再交渉が可能になってしまうと、東京電力の場合は、世論からも政府の様々な権限からも(規制業種であるから)再交渉において極めて不利な立場に陥る。具体的には、すべての賠償責任は東京電力にあり、政府は責任も負担は出来る限り東京電力に負わせようとすることになる。だから原発の事故が起こってしまうと、電力会社は圧倒的に不利な立場に陥るのである。

したがって、この事態、再交渉の可能性を予見していれば、東京電力はこんなことをしなかっただろう。つまり、こんなこととは、原発の運営である。このようなリスクは民間事業者に負えるリスクではないから、原発を建設などしなかっただろう。

では、東京電力は頭が悪かったのだろうか。そうではない。東京電力株を純粋な投資目的で保有している海外のファンドは、もちろんこのリスクを認知していた。東京電力も同じであろう。では、あえて事業に踏み込んだ、あるいは投資した理由は何か。それは原発無事故神話を信じていたわけではなく(事故は実際に柏崎刈羽を始め何度も起きている)、いわゆる原子力損害賠償法第三条の但し書きを根拠に、大地震のときは免責されると思っていたからである。もちろん、これには政府が事業計画を許可し、検査にも入り、毎年事業計画書も提出しているから、当然政府もすべて認可したものであり、基本的な設計ミスと事故が起きてから言われることはないと考えるのは極めて妥当であった(事前に議論があっても停止、廃炉の決定をしていなければその責任は政府にある)。

しかし、この予見は間違っていた。日本政府はルールを守らない可能性が高いことを知らなかったのである。あるいは今の首相が首相になると思っていなかったという説明もありうるかもしれない。
いずれにせよ、予見は間違っていた。ルールは守られない。そうなると、コミットメントは今後は成立しない。つまり、多大なリスクのある原発など誰もやらなくなるからだ。今後は原発事業に参入する事業者はリスクを適正に判断しない、短期指向の事業者以外は存在しないだろう。既に事業を継続している事業者は、できる限り早く撤退しようとするだろうが、慣性が働き直ちにはやめられないだろう。

しかし、投資家は撤退するのは簡単だ。証券投資であれば、できる限り速やかに売却するだろう(値崩れを最小限にしつつ)。株式も債券もそうだ。銀行の相対融資は難しいが、国難を踏まえて人道的に融資した2兆円を一生後悔し、今後は一切融資をしない方向に舵を切るだろう。投資家からの訴訟も起きるだろう。

つまり、ルールを守らないと、再交渉が起こるという前提で行動をするようになるから、通常の電気事業は営まれないようになってしまうのである。火力発電にも様々なリスクがあるから、送発分離(送電と発電の分離)をしても、誰も本格的に発電には参入しないだろう。

したがって、賠償責任を誰にどの程度負わせるかは今後の電力供給において極めて重要なのである。

コメント

  1. ryoito88 より:

     「ルールを守らないと、再交渉が起こるという前提で行動をするようになるから、通常の電気事業は営まれてしまうのである。」は、「営まれなくなってしまう」の誤りでしょうか。

     契約によるルールと、法律によるルールの違いをどう捉えるかという点も重要かと思います。
     契約というルールは、市場経済の根幹であり守るのは当然ですが、一定程度守られない可能性もあることを取引当事者は想定するので、市場メカニズムに取り入れられています。当然、契約してから一方的に変更を求めることは許されません。
     一方、法律というルールは、民主的な手続きを経ている限り、後に変更されることは当然あり得ることです。それが市場メカニズムを破壊するものであったとしても、民意である限り、変更が尊重されるべきものです。過去の為政者が決めたルールを、後の為政者が変更することはあり得ることであり、それが予見不可能なのは法律というルールの本源的性質です。
     難しいのは、政令のような、民主的手続きを経ているのか否か明確でないルールについて、その変更が許されるのかどうか。この点は難しい。

  2. taru77 より:

     天変地異なら免責されるといっても、たとえば老朽化したプラントを危ないと知りつつも使い続けていた場合、「天変地異で壊れたんだから免責しろ」と言っても通らないでしょう。法が予定する免責の要件は、「天変地異が起こったこと」ではなく、「天変地異によって発生した事故について無過失であったこと」であるわけです。もちろんこの無過失とは、過失がゼロであることではありません。
     許認可をしたのは国だろう、東電から情報が上がってこない体制を作ったのは国だろう、こういって全て国に責任を押し付けていくとどうなるか。次は政府が事後的な責任を問われるのを恐れ、過剰な規制を電力会社に求めることで、最新技術による発電所が作れなくなるだけでなく、既存の発電所まで停止・点検という事態に陥りかねない。これは電力だけでなく、あらゆる分野の産業に及ぶでしょう。
     だからこそ、「東電がバカだった」といって政府を免責することにも、一定の合理性があります。この記事には、このもう一つの重要な側面が抜け落ちているように思われます。

  3. atoman0 より:

    どんなルールでも都合が悪くなれば,なかったことにできるというのは,ルールに契約としての意味がないのだろうと思います.

  4. tadhoge より:

    議論に異論はありませんが、政府信用の評価に異論があります。

    ご承知のとおり我が国の政府は四半世紀ものあいだ持続可能な状態に置かれておりません。財政をきりつめる、福祉をカットする、増税を容認する、バラまきしない、というような代表者はメインストリームに決して置かれません。

    そのように選出される政治家は、できない約束をし、自己他己問わず約束を破る必要が生じます。たとえばCO2の削減25%の約束を反故にするというような行動が必要になります。

    ルールを守らないことは必ずしも非難されるべき点ではなく、「コミットメントが成立しない」ということそのものが重要です。

    電力会社も政府信用に頼らず、自動車事故同様、民間の保険信用に依存するべきと思います。(むろん大手保険会社への保険商品の設立を強制化する必要は生じます)

  5. 未来 より:

    規制緩和が叫ばれる一方で、毎年、新しいルールや法律ができます。
    法律が正しく整備されておらず、社会の変化が早すぎて法律が追い付いていないのだと思います。
    もし、浜岡が緊急を要するに事なのに、遅れた法律の前に総理も誰も直ぐに何も出来ないといたら怖いものがあります。
    私は何が正しくて間違いなのか判断出来ませんが、日本が安全で豊かになる為の道を探って欲しいです。
    ドイツの原発に対する動きの速さを見るにつけ、日本の政治制度に問題があるような気もします。