英語のお勉強 (副題:なぜコーダユーはロシア語をマスターできたのか)

2011年05月08日 18:28

先月、英文のエントリーをアップしたところ、アゴラ読者のみなさんから、公私いろいろご反応をいただいたので、また「英語のお勉強」というテーマで書いてみる。


小幡さんのエントリーを読んで、これ以上震災をネタにする気が失せたことも、理由の一つ。

もっとも以下のようなニュースを目にすると、無関係でない気もするが、これも小幡さんの筆法でいえば、もともとあった問題が、たまたま震災で表面化したにすぎないのだろう。

東電・保安院の記者会見 記者陣が誰もいなくてシュール
ガジェット通信(4月27日)
東京電力と原子力安全・保安院が行った外国人記者向けの会見が、とうとう誰もいない状況となってしまった。...

記者会見に誰も来なくなったのは、官僚の語学力の問題というよりは、今回の政府の後手後手にまわった情報戦略の失敗と、海外マスコミとのコミュニケーションの取り方を知らない、いわば「記者クラブ童貞」ともいえる日本官僚の体質の問題であろう。

しかしその背景には、秀才官僚たちの、語学力コンプレックスがあると私は思う。「官僚は外人に弱い」と言われる所以である。

本題に入ろう。

これは全く私の個人的見解だが、外国語の個人における習熟度というのは次の三つのステージに別れると思う。

つまり「言葉が通じる」、「言葉が伝わる」、そして「言葉を読ませる/聞かせる」である。

言葉というのはその国に行きますと
乞食でも子供でもみんな喋っているものですから
別に珍しいものでも何でもありません。(邱永漢)

日本人のほとんどは学校教育を通じて初めて英語にふれる。学校でなくても、町の英語塾であったり、英会話コースであったりする。

こうした枠組みで習うのは当然ながら「正しい英語」である。しかし「正しい英語」は、「通じる英語」であるとは限らない。もちろん教室で習った「正しい英語」の知識は重要だが、使いこなせない知識は、無いのと同じだ。

「あれだけ勉強したのに...全然通じない...。」

という現象は、トレーニングの内容が、目的に合致していないがために起る。

「バカと思われるから、英語しゃべらない。」

という秀才クンのエピソードを以前紹介したが、「頂上」を目指す為には、いったん下り坂の道も通らなければならない。教室で蓄積した「正しい知識」をムダにしない為にも、一度「乞食や子供」レベルを通ることは避けられない。

余談だが、子供の言語習得能力が優れている理由の一つは、この「レベル・ダウン」に対する抵抗感がないからじゃないだろうか、と私は思う。

ジョンストン:「言葉」は大切です。
溥儀:なぜ「言葉」は大切 なのだ。
ジョンストン:もし陛下が本当に思っていること言葉にできないとすると、陛下のお言葉は常にその思っておられることと異なることになります。ジェントルマンは常にその思うところを「言葉」にすべきなのです。
Johnston: Words are important.
Pu Yi: Why are words important?
Johnston: If you cannot say what you mean, your majesty, you will never mean what you say and a gentleman should always mean what he says. (映画「ラスト・エンペラー」)

「言葉が通じる」ようになってくると、教室で蓄えた「正しい知識」を有効に活用できるようになってくる。

正しいボキャブラリーの選択と、正しい文法は、言葉の背後にある「アイディア」の伝達の精度を飛躍的に向上させる。それはあなたのコミュニケーション能力が「乞食や子供」レベルを脱し、あなたの知性を正当に反映し始めることを意味する。

正しい文法は、なににもまして話し手/書き手の知性を裏書きする。

日本人は、発音/アクセントを気にしすぎる。これは日本語の「訛り」に対する偏見を、そのまま外国語に転換しているのかもしれない。

白州次郎が進駐軍将校に向かって、

「あなたの英語も悪くない。」

と言い放ち、鎧袖一触、アメリカ人に対して一矢報いた、などというエピソードをどこかで読んできて、まるで自分がその場で見て聞いたかのように話をする方がいるが、これはたまたまケンブリッジで学んだ白州が、敗戦直後の占領軍将校を相手に「反骨精神」を披露する話。これを曲解して「イギリス英語至上主義」をふりかざすのは、ただの俗物根性丸出しだ。

バーナード・ショーが「マイ・フェア・レイディ(ピグマリオン)」で、ヒギンズ教授に言わせるように、イギリス人のしゃべる英語とて千差万別。イギリス人は、その口を開いたとたんに、他のイギリス人を敵にまわす、とか。

キングス(クィーンズ)・イングリッシュを珍重するのは、それはそれで個人の趣味なのでかまわないが、文法がメチャクチャなのにアクセントだけ気どっているというのは、滑稽きわまりない。「バカに見られたくない」というのであれば、舌先よりもまずは頭を整理することを心がけるべきだ。(賢明な読者はすでにお気づきのことと思うが、これは私の恥多き過去の経験から述べている。)

ウッディー:バズ!オレたち飛んでいるよ!
バズ:これは飛んでいるんじゃない。カッコよく落ちているだけさ。
Woody: Hey, Buzz! You’re flying!
Buzz: This isn’t flying, this is falling with style! (映画「トイ・ストーリー」)

自分の考えやストーリー、それらをひっくるめた「情報」を正確に伝えることができるようになってくると、次は「スタイル」を追求することになる。ようするに「カッコよくしゃべりたい」、「カッコいい文章を書きたい」という欲望が出てくるレベルに達する。

たかが「スタイル」とバカにしてはいけない。

漢字学の泰斗、故白川静博士によると「文」という漢字のオリジンは、身体に入れ墨をした姿を現す甲骨文字らしい。たくさん彫り物をいれると、ますますかっこいいので「爽」という字になるそうだ。ようするに「文」とは「飾り」である。ヒトが生きていく上で、厳密には必要の無いものだが、「衣食足りて礼節を知る」の言葉の通り、この「飾り」の有無がヒトと禽獣を分ける。「飾り」を受け入れる、つまり「文」に染まることにより、ヒトはより「文化」的になっていくわけだ。

話がズレたが、ようするに言葉の世界においても、無味乾燥な「正しい言葉」の上に、「スタイル」というコーティングをほどこすことにより、より洗練され、パーソナライズされていく。

ではどのような「スタイル」を目指すべきなのか。

結論を先に行ってしまえば、それは個人の嗜好ということになる。

もちろん「言葉」の存在意義の基本のキホンを「コミュニケーションのツール」として認識すれば、「分かりやすさ」という伝達能力を犠牲にしてスタイルを追求することは本末転倒と言えるだろう。

イギリス留学当初、やっと日常会話に不自由しなくなってきていた私の英語力は、法律の勉強を始めたとたんに「オマエ、ナニがいいたいの?」というレベルに逆戻りしてしまった。それというのも、私の「書く英語」も「しゃべる英語」も、教材としてドッサリ読まされた法律書の影響で、不必要に複雑になってしまったからだ。

私にとってはこの経験が、「スタイル」の重要性をきづかせた。そりゃ誰だって、法律書のような話し方をするヤツとつきあおうとは思わない。

もちろん「スタイル」は個性の反映なので、

「私、どうしてもロイヤル・ファミリーのようにしゃべりたいんです!」

というのであれば、クィーンズ・イングリッシュの習得に血道を上げてもいいだろう。(世界中のイングリッシュ・スピーカーの、少なからぬ人々から白い目で見られることになるかもしれないが。)

サッチャー元首相も、保守党党首の座を目指し始めてから、スピーチ・トレーナーを雇ってしゃべり方を変えたことはよく知られている。

私の知人で頻繁にBBCやCNNにコメンテーターとして出演している日本人エコノミストの方がおられるが、同氏はBBCに出演する時は故意に(としか思えない)キツめのアメリカン・イングリッシュで登場される。これもある意味個性の発露かもしれない。

しゃべる「スタイル」に関しては、アクセント/訛りと同様に重要な要素として、「リズム感」ということがあるが、これに関しては以前のエントリーで取り上げたので、参照してほしい。

もう一方の「書く」こと、文章の「スタイル」ということに関しては、基本のキホンとして「言文一致」という軸が存在するが、しゃべるように書いたところで、読みやすい文章が書けるというわけではない。またしゃべるように書いた文章が、そのまま書き手の個性の発露にはつながらない。

自分の英語文章の「スタイル」ということに思いが至った人には、この分野では「古典」ともいえるこのガイドブックを推奨する。

誤解してほしくないが、私はべつにイギリスの「エコノミスト」紙の文章を世界標準として奉じているわけではない。しかし、このガイドブックに網羅された「文章スタイル」の「注意点」を把握した上で、自己のスタイルを構築していくのが近道だと思っている。

英文エントリーのコメントで、ヘミングウェイの文章に言及されている方がおられた。短いセンテンスを積み重ねていく彼のスタイルは、「ラジオの時代」という、その時代背景に影響されたものだという説を、どこかで読んだ覚えがある。ディッケンズの「立て板に水」の文体が、彼の「朗読会パフォーマンス」という環境の必要に即したものであったことと、同様の話だ。

私個人の文章スタイルは、学生時代から今に至るまで、ことあるごとに読み返しているアメリカの作家、ゴア・ヴィダルに影響されていると思う。「バロック調」ともいえる彼の文体は、日本語でいえば開高健氏のそれに近いかもしれない。

やはり自分の文章スタイルを磨くためには、より多くの文章に接して、自分のテイストを確立していくことが重要だろう。もちろん突然ピューリッツァー賞レベルの英語を書けるようにはならないが、「ゴールがなければシュートはできない」というのもこれまた真理だ。

飛行機やラジオは、世界の人々をより身近にした。
これらの発明は、その存在自体が、
我々人類の人間性の向上を促している。
人類愛と協調を求めている。
今、この私の声は世界中の何百万という人々に届いているのだ。
The airplane and the radio have brought us closer together. The very nature of these inventions cries out for the goodness in men; cries out for universal brotherhood; for the unity of us all. Even now my voice is reaching millions throughout the world…(チャップリン「独裁者」)

日本の英語教育は、学力テストの一環としてイビツな発展をとげたまま放置されている。それは「コミュニケーション」という言語の根本的存在理由の軽視の上に立脚し、日本の経済と将来の繁栄を内側から立ち枯れさせている。

人生一度きりの貴重な青春時代を、使い物にならない「語学」習得に費やし、周囲にその将来を嘱望され官庁入りした優秀/有為な若者たちが、だれも聞きに来ない記者会見で、だれも座っていないイスを相手に、英作文を朗読している。

彼ら個人においては悲劇であり、日本にとっては大損失だ。

この小文が、若い読者の英語学習における何らかのヒントになってくれるのであれば、「徒労にあらざりしか」である。

なお、副題、「なぜコーダユーはロシア語をマスターできたのか」であるが、私はこう考えている。

大黒屋光太夫は、1782年から10年あまりの漂流生活で、アリューシャン列島アムチトカ島からハバロフスク、イルクーツクを経てのシベリア横断、そして女帝エカテリーナとの謁見を果たしたペテルスブルグまで、当時の日本人としては想像を絶する世界体験をした。この10年間、彼の行動の全ては、伊勢白子の回船「神昌丸」の船頭として、部下の水夫たちと共に、無事ふるさとの日本へ戻ること一点に絞られ、けっしてぶれることが無かった。

光太夫が漂流者のなかで一番ロシア語に習熟した理由は、彼のこの「船頭」としての責任感と使命感にあったのだと思う。彼には皆を代表して、「コミュニケーション」をとる必要性があり、その責務を存分に果たしたのだ。行く先々でその地の名士の歓待を受け、ついには時のロシア宮廷をも感服させたのは、光太夫のそうした「お人柄」とリーダーシップにあったのだろう。

私がおせっかいを承知で、私なりの英語の習得術を皆さんに披露するのは、皆さんが英語というツールを使いこなせるようになり、光太夫のように「日本人の代表」として世界の人々と「繋がって」いって欲しいからだ。

「英語力」で「就活を有利に進めよう」などと、日本人同士で「人をしのぐ」ことなどを目的にしていない。

「大黒屋光太夫ってだれ?」という方、以下に「参考図書」を列挙するので「日本人としての教養」を身につけてほしい。


「ロシアにきて知ったことは、自分が日本人だということだ。」

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