「成人式はバカと暇人のもの」 若者に「尾崎豊」を強要するのはやめなさい

常見 陽平

成人の日である。今年の成人式は、実に気持ちいい。というのも、この10年くらいずっと続いてきた「成人式で荒れる若者」的な報道を目にしなかったからだ。ネット上で話題になったのは、主に次の二つである。一つは、朝日新聞の社説だ。「成人の日に―尾崎豊を知っているか」。もう一つは、熊本県阿蘇市の佐藤義興市長が成人式でお世辞にも上手だとは言えない歌を披露したことである。

実に牧歌的であると感じた。特に前者については、「若者はかわいそうだ」と感じざるを得なかった。大人もバカで頼りないことを可視化してしまったからだ。


■新成人も、私も「尾崎豊」を知らない
まず、「尾崎豊を知っているか?」と言われても、新成人は「知りません」と答えざるを得ないだろう。新成人はとっくに平成生まれで90年代前半生まれだ。尾崎豊が亡くなった92年に彼らは生まれたのだから知るわけがない。ただ、名前と代表曲くらいは知っているかもしれない。ミュージシャンのインタビューで彼らが影響を受けたアーチストとして紹介しているのを聞いたり、あるいは宇多田ヒカルやミスチルがカバーするのを聴いたのがキッカケだろう。あるいは、尾崎豊は何年かに一度、再評価されているので、そこで知ったのかもしれない。

ただ、今年の新成人が彼の生き方と歌に全面的に共感するとは思えない。さらに言うならば、尾崎豊が生きていた時代にティーンエージャーだった私だって、別にリアルタイムで尾崎ファンだったわけではなかった。当時の私にとって、尾崎豊の歌詞は響かなかった。もっとうるさい音楽の方が心を揺さぶったのだ。たしかに同級生は尾崎豊を聴いていたが、私やその周りにいるバンド仲間にとっては洋楽のガンズ・アンド・ローゼズの方がよっぽど音がうるさかったし、暴力とセックスの匂いがプンプンしていて刺激的、魅力的だった。

「それは、お前の音楽の趣味だろ」と言われそうだが、まったくもってその通りだ。いや、実はそれだけではない。90年前後の当時だって、音楽の趣味も生き方もとっくに多様化していたのである。ゴールデンタイムで歌番組を放映する時代は、ほぼ終わっていた。厳密にはミュージックステーションなどの番組はあったし、まだCDTVなどのランキングに入る曲も、カラオケで皆が歌う歌も似通ってはいたが、「国民的ヒット」というのがあり得なくなったと言われたのが、この時期である。「ドリカムやB’zがミリオンを連発しているというのに、サビを歌えない人がいる」ということが当時から言われていた。当時の若者は誰もが尾崎豊を聴いて、共感したわけではないのである。バイクを盗んだり、夜の校舎の窓ガラスを割ったわけでもない。

もっと言うならば、尾崎豊は影響力、存在感はあったものの、決してバカ売れしたアーチストではない。前述したドリカムやB’z、ミスチルの方がよっぽど売れている。ちなみに、日本で一番売れた男性ソロアーチストのアルバムは河村隆一の『LOVE』である。実は私はこのアルバムが大好きなのだが、当時も商業的だと揶揄され、ファン以外はナルシストすぎると言われ、今ではBOOK OFFで105円くらいで買えるこのアルバムが、実は尾崎豊のどのアルバムよりも売れたのである。これもまた皮肉なことである。

■いつも若者不在の若者論
ここ数年、メディアは「若者かわいそう論」の大合唱だった。私の専門の新卒採用についてもまさにそうで、メディアは就職難に苦しむ若者の姿を紹介し、読者の共感を得てきた。さらには、世代間格差の話になったりもする。

ただ、この手の議論は若者が不在の議論になりがちである。今回のように、「尾崎豊を知っているか」と言ってみたり、スティーブ・ジョブズが死んだら、”Stay hungry,Stay foolish”という名言をドヤ顔で受け売りしたりする。では、若者が尾崎豊化したら、スティーブ・ジョブズ化したら、全力で叩き潰すのが大人たちである。新卒採用においてもそうで、企業が掲げる求める人物像というのは、「そんな人材いるのか?」というほど神さまスペック化していくし、ないものねだりだ。一方、そんな求める人物像に合わせるように学生は演技し、結果として企業には「マニュアル学生」だと解釈されたりする。そんな不幸な連鎖が続いていて、なかなか悩ましい。

今回の朝日新聞の社説に関しては、「ネタじゃないのか」「実は新成人じゃなくて、大人たちへのメッセージでは?」という解釈もあるようだが、言いっ放しでは意味がない。若者に期待していそうで、この言説自体が実は、昭和的価値観、20世紀的価値観にしがみついた考え方ではないだろうか。つまり、新しい時代をつくるということなんか、何も期待していないのではないだろうか。

実は「こうなれ」と押し付けるよりも、「どうなりたいのか?」と傾聴する姿勢を大切にしたい。もっとも、若者にとってなりたいロールモデルがなかなかないのは、今も昔も課題なのだけれど。

一つだけ言うならば、今回の朝日新聞の社説や、歌を歌って失笑を買った阿蘇市長を見て分かるとおり、別に大人たちが素晴らしい能力や考えの持ち主であるわけではないということだ。皮肉なことに、彼らは身を持って、「大人も色々あるんだよ」と教えてくれたのかもしれない。自分の眼で見て、自分の頭で考えて、自分の言葉で話すことが大事なのだ。大人にしがみついてはいけない。新成人よ、「自分はどう思うのか?」と考えるクセをつけ、自分で自分を支え、試行錯誤をサボらず、紆余曲折を怖がらないで欲しい。くれぐれも言うが、バイクは盗まなくていい。窓ガラスも壊さなくていいのだ。