現実的で具体的な「原発論議」を

松本 徹三

私は、相当に強い「脱原発依存」論者だが、率直に言って「原発ゼロ」には懐疑的である。幼い子供達を育てている私の娘達には何れも強い放射能アレルギーがあり、また、今もなお私を顧問として雇ってくれている孫正義さんは「反原発・自然エネルギー推進」の旗手なので、この事はあまり大っぴらに言いたくはないが、国と世界の将来を考えれば、「日本が急速に原発をゼロにする」事には、私自身としては強い危惧を持たざるを得ない。


因みに、多くの人達を動員したデモは、政府に「この問題は安易に解決出来る問題ではない」事を知らしめた訳だから、私はそれなりに評価しているが、「カネか命か」とか「子供達に安全な未来を」等というシュプレヒコールを叫びたてる人達には、私は少しウンザリしている。「お、そうか。それなら『原発反対』と言えば、次の選挙で票が取れるな」とニンマリしている政治屋さんには、勿論それ以上にウンザリだ。

「命」の方が「カネ」より大切なのは当たり前だし、「子供達の安全な未来」を何よりも望むのも殆どの人達に共通する事だ。だから、そんな問い掛けは無意味であり、問題は「具体的に何をどうすれば最大多数の最大幸福が得られるか」という事に尽きる。その「方法論」に意見の相違があるのだから、そこを具体的に議論するのでなければ意味がない。

昔のサヨクは「戦争ハンターイ」と言って日米安保や自衛隊に反対してきたが、それと一緒で、今のサヨク主導の「原発反対運動」も、数字に裏付けられた具体的な解決策は何も提示していない。

昔から、好きで「戦争」をしたいという人は殆どおらず、「戦争」より「平和」の方がよいのは決まっているが、「それなら、どこの国からどんな圧力をかけられても『ご無理ごもっとも』と聞き入れていればよいのか」と尋ねられれば、それでよいという人は殆どいなかった。だから、今となっては、自衛隊を解散しろと言う人も、日米安保を廃棄しろと言う人も、極めて少数派だ。

原発には相当の「リスク」があるのは事実だ。そして、「リスク」というものの見方は、個々の人の価値観や心理によって相当に異なる。だから、私は、この「リスク」を確率論だけで評価するする人達には同調できない。また、今回福島で起こった事と、その後の安易で緩慢な動きを見ていると、私は日本の政府や大企業の対応能力に不信を持たざるを得ず、このままでは、仮に「原発ゼロは問題だ」と考えているとしても、例えば「5%とか10%程度が妥当だ」等と、いい加減な事を安易に言う訳にはいかない。

国会の事故調も、政府の事故調も、その最終報告書はかなりよく出来ている。菅元首相の談話も今聞くとそんなに悪いものとも思えない。しかし、ここに至るまでに、実に1年と5ヶ月に近い歳月を費やしているというのは、一体どういう事なのだろうか? 東電は、今頃になってやっと当時のビデオを公開したが、故意に音声が消されていたりするのは何故なのだろうか? 身内を庇うのは一つの美徳かもしれないが、国家レベルで「原発存続の可否」が問われている現在の深刻な状況下では、こんな美徳は切り捨てられるのが当然だ。

今回の福島の事故は「人災」であり、最大の問題は、「安全神話」で自らを欺き、最悪時のシナリオに対する備えを全くしていなかった事だったという評価は、現在はほぼ固まっていると思う。ところが、不思議なのは、「こういう準備をしていたら、被害はこの程度に食い止められていた」という検証が未だになされていない事だ。これが万人の納得できる形でなされていたら、「こういう体制をきちんと固める」という条件で、一部の原発の再稼動を認める手もあると思うのだが、それもなしに、「とにかく夏場の計画停電を回避する為にはそうするしかない」という理屈だけで、闇雲に再稼動に動いてしまっている事実は看過できない。

事故の直後、原発事故に対応する三原則として「止める」「冷やす」「閉じ込める」という事がよく言われ、とにかく「止める」事には成功したという事が強調されたが、電源を早期に復旧できなかった為に「冷やす」事が出来ず、炉心溶融を止められなかった。結果として、ベントと水素爆発によって放射性物質が大量に大気中に拡散され、また配管の一部に亀裂が生じていた事もあって、汚染水が流出するのも防げなかった。「冷やせなかった」事が、当然の事として、「閉じ込められなかった」事にもつながったのだ。

原子炉自体は、世界に冠たる日本製鋼の技術のお陰もあって、堅牢に作られていたが、外部に露出している電源や計器、ポンプ類は地震と津波で破壊された。これは当然あり得たことであり、東電の関係者がこれを「想定外」という言葉で簡単にかわそうとしていたとしたら、あまりに無責任と言わざるを得ない。

この事態に対応する体制、例えば、「予備電源や予備配管の即時繋ぎこみ」や「計器類の遠隔読み取り」、「暗視装置を備えたロボットの投入」等々を可能とする準備は、日頃から当然なされていなければならなかった筈だったのに、これらが全く出来ておらず、その結果として「周章狼狽」の醜態を世界に晒す事になった。(卑近な例では、「折角取り寄せた予備電源のコネクターの規格が合わずに使えなかった」等というのは、とても恥ずかしい事だったし、防護服の不足や、下請け企業の作業員への指揮監督系統の混乱等もそうだった。)

自分自身と部下達の死を覚悟して、現場で最後まで陣頭指揮を取った吉田前所長は本当に立派だったが、最近公開されたビデオを見ると、東電の幹部の中には「この事故に関係する自分達の責任の重大さ」に十分な自覚を持っていなかった人達もいたのではないかと思われる。

私は何も過去の事を問うのに興味があるわけではない。これから再稼動されるかもしれない既存の他の原発について、「この様な事を絶対に起こさない」という強い決意と責任感、そして何よりも、その為の十分な準備がなされているかを確かめたいのだ。

私の提案は簡単明瞭だ。先ずは、誰でもよいから、「事前にこういう準備をしておき、あの時にこう動いていたら、福島の事故の被害はこの様に縮小できた」という詳細なシミュレーションを、一ヶ月以内に示して欲しい。更に、同様のシミュレーションを、福島のケースを更に上回る規模の地震や津波までも想定してやって欲しい。その上で、既存の原発施設でそのような準備が本当にきちんとなされているかどうかを、一つ一つ検証して欲しい。

本来なら、こういう事は事故発生後6ヶ月以内にはなされていなければならなかったと思うのだが、今からでも遅くない。観念的な議論や犯人探しはもういいから、これからは「将来をどうするか」に視点を移した具体的な議論をして欲しい。既存原発再稼動の可否の議論はそれからだ。

その意味で、民主党政権が求めてきている「中長期エネルギー政策」の議論も拙速過ぎる。いきなり「将来の原発の比重は、0%か、15%か、20-25%か」と聞かれても、何を根拠に判断すればよいのか分からないから、答の出しようがない。70%の人達が0%と答えたとの由だが、こういう問われ方をすれば、そういう答が多くなるのは当然だろう。「戦争になる可能性は、0%、15%、20-25%のどれが良いと思うか?」と聞かれたら、殆どの人が0%と答えるだろうというのと同じ事だ。

他の多くの方々も指摘しておられる事だが、エネルギーに関する議論で一番感じるのは、数字が欠落している事だ。多くの議論が「命かカネか」式の「情緒論」に陥ってしまい、国論を二分してお互いに口汚くののしりあう結果になっているのも、それ故だと思う。しかし、「反原発派」の人達は元々情緒的な人達が多いのだから、彼等にそれを求めるのは筋違いかもしれない。だから、数字をきちんと示して議論を挑むべきは「原発容認派」の人達の方であり、この人達がこれをちゃんとやっていないのは怠慢だ。

例えば、経団連は、「中長期エネルギー政策」に関して、7月14日付でいち早く「第1次提言」というものを出しているが、ここでも全ては抽象論に終わってしまっており、数字は一切示されていない。「第1次提言」だからそれでも良いだろうというのなら、「第2次提言」は何時出るのだろうか?

「このまま原発を全て止め続ければ、電気代は高騰し、諸産業の拡大意欲は縮小、工場等の海外移転による空洞化は更に進み、雇用は減少、一方、日本の貿易収支は赤字が定着するので、「国債の暴落」を防ぐ為の選択肢も縮まり、公共事業の拡大は夢のまた夢、更なる増税の可能性すら高まる」というのは、或いは事実なのかもしれない。しかし、もしそうなら、そういうシミュレーションの結果を数字で出してもらわねば、一般の国民には分からない。

「命かカネか」という問いかけが愚かなのは、現時点でも多くの命がカネの為に失われている事実を見れば明らかだ。経済が破綻し、町に失業者が溢れれば、人心はすさみ、精神を病んだ人達による通り魔事件等も頻発するだろう。放射能に汚染された野菜を食べて癌になる確率は若干減っても、通り魔に刺される確率は大幅に増えるだろう。まあ、「反原発派」も「原発容認派」も、どちらも狼少年的で、万事に誇張した話をしている嫌いがあるから、どっちもどっちかもしれないが、双方がもっと冷静に数字をベースに話すようになれば、事態は少しは建設的な方向へと動くだろう。

さて、最後になったが、私が何故「原発ゼロ」に懐疑的なのかを説明したい。それは、何よりも、日本から「原子力と原発を実体験で熟知した技術者」がいなくなる事を恐れるからだ。

当面の問題としては、「休止中の原発施設」や「使用済み核燃料」に対応する人の質と量が不十分になって、将来の事故のリスクが増える(詳しくは7月20日付の北村隆司さんのアゴラの記事をご参照下さい)という事があるが、別の角度から見ると、発展途上国を中心に「何れにせよ増大していくだろう世界の原発」の安全性確保について、「十分な知識と経験の蓄積を持った日本が『没交渉』でよいのか」という問題もある。

発展途上国の原発に対する対応については、「世界のエネルギーと日本の役割」と題する今泉武男さんの優れた考察が7月31日付でアゴラに掲載されているので、是非これをご一読頂きたいが、既に経済的に一定の地位を築いている日本が、発展途上国に自らと同じ価値観を押し付ける事は出来ない。

ドイツのメルケル首相は、福島の事故の後、哲学者や社会学者なども動員して格調高い「反原発」の白書をまとめたが、これも現在のドイツが圧倒的に高い経済競争力を持っているからこそ出来た事であり、発展途上国に同じ事をしろと言っても無理だ。ドイツが大量の電力を輸入している原発大国の隣国フランスに影響力を行使する事すら難しいだろう。

現在は、どんな国も、一国で閉じた体制を作るのは不可能だ。始めから「世界のあるべき姿」を考え、その中で自国がどう振る舞い、どういう影響力を他国に対して行使出来るかを考えるしかない。他国の事は見て見ぬふりをして逃げようとしても、逃げられるものではないし、そんな卑怯な態度では、どんな国からも尊敬も友情も得られないだろう。

この件に関連する私の提言は、下記の如く単純明快だ。

日本は必要最小限の原発を稼動させ、リスクを極小にする方法でそれを丁寧に運営して、世界のお手本にする。

具体的には、活断層を避けるような立地、十分なカネをかけての安全対策、使用済み核燃料の処理方法の決定と実行、完璧な危機管理体制の確立、近隣住民の説得と賛同の獲得(賛同が得られなければ、再稼動を断念するしかない)、等々を徹底する。

上記を可能にする為に、レベルの高い技術陣を温存し、その士気と使命感を鼓舞し、諸外国と積極的に交流させる。(相手国の要請があるなら、原発施設の輸出も勿論「可」とする。-これについては、昨年8月1日付の私のアゴラの記事をご参照下さい。)

なお、放射能汚染問題については、「そろそろ原発問題を総括すべき」と題した2月6日付の私のアゴラの記事をご参照願えれば有難い。

「長期エネルギー政策」については、昨年8月29日付のアゴラの記事でやや中途半端奈議論をしているが、自然エネルギー問題を含め、この事については数週間以内に稿をあらためて論じたい。Twitterで「42円というベラボーに高い太陽光発電の買取り価格についてどう思うか」とコメントを求められているが、これについてもその時にまとめてお答えしたいと思っている。