日本は、いつまでも「外交音痴」でいる訳にはいかない。

松本 徹三

尖閣諸島の問題は、遂に日本と中国の関係を最悪にしかねない状況を惹起した。政治家の思慮不足が招いた憂慮すべき状況である。この事によって損害を受ける人達は日中両国において相当数に及ぶだろうが、どちらかと言えば中国に進出している企業の多い日本側の方が深刻だろう。関与した政治家は、その事の責任をよくかみ締める必要がある。


日本の外交下手は今に始まった事ではないが、戦後はずっと対米関係だけを無難にこなしていれば済む状況だったので、あまり心配する事はなかった。中国との関係も基本的にはニクソンの後について行くだけでよかったわけだ。戦前はと言えば、「外交で解決できないのなら、戦争で解決するしかない」という単純な二者択一論で全てが語られた上に、小村寿太郎や幣原喜重郎の例を引くまでもなく、少しでも妥協をすると「軟弱外交」として民衆に糾弾されるしかなかったので、外交手腕を磨きたくても磨ける筈がなかった。

しかし、現在はどうだろうか? 別に憲法に規定されていなくても「国際紛争の手段として戦争を考える」人は少ないだろうが、とにかく現行憲法にははっきりとその事が書かれているのだから、戦前とは天と地ほど違う。冷戦が終わり、世界情勢が複雑化している上に、日本経済は対米依存から対中依存へと比重が移りつつあるので、これまでのように「対米追随一辺倒」で済むわけにも行かなくなった。これからは外交の巧拙が国益に大きな影響を与える事になる。

日中関係がその中でも最も重要で且つ難しいものである事は言を俟たない。その理由は三つある。

第一には、両国は地政学的に極めて近いところに位置している為、周辺海域においては利害が厳しく対立する可能性がある事だ。直接的には「海底資源の争奪戦」が最も危惧される事であり、尖閣列島問題もそれ故に問題が大きくなっている訳だが、中国側から見れば、それ以外にも、「台湾や東南アジア諸国が日本と深く結ぶ事を警戒せねばならない」という問題も抱えている。

第二には、両国が経済的に極めて緊密に結びつきつつある事だ。特に日本にとっては、中国は単に「米国をはるかに越える巨大市場」として潜在力を持っているのみならず、「安価な食品や生活必需品の輸入元」であり、また、当面は、「コストを下げる為の工場移転先」としても最も有望と見做されている。現時点では、中国にとっても日本は「大切な市場」であり、「大切な部品や技術の輸入元」ではあるが、日本にとっての中国の重要性の方がより大きいように思える。

そして、第三には、「かつて日本軍が中国大陸に侵攻して国土を蹂躙した」という事実がある為に、中国政府が「一般民衆の反日感情」というカードを自在に操れるという点である。このカードを使うと、中国政府は、一旦両国間に深刻な利害の衝突が生じた場合には、大挙して中国に進出してきている日本企業を一挙に「人質」にすることが出来る。

かつての鳩山─小沢体制下の民主党政権は、「自民党時代の対米追随一辺倒の外交との差を見せ付けたい」という子供っぽい欲求から、日本と中国と米国の関係を正三角形に見立てた「新しい外交戦略」を提言していたが、これはとても「戦略」と呼べるようなものではなかった。そもそも日本を米国と中国という二大覇権国と並べて考えるという事自体が、誇大妄想に近い発想だ。

現在の世界では、国力と言うものは、「経済力(技術力を含む)」と「軍事力(国際社会での影響力)」の二点から計られる。日本は前者でこそ現状では中国とほぼ互角といえるが、後者では全く比較にならない。その上、中国には「人口」という圧倒的な力がある。「人口」は「購買力」と「労働力」を意味するのみならず、「地球上に生存している人間の意志」というものが問題になる時には、相当の意味を持ってくる。

「経済力」と「技術力」はほぼ互角だと私は言ったが、実は、近未来の姿についてはかなり悲観的だ。日本では、「イノチかカネか」といったような情緒的なスローガンが一般大衆の支持を受けているようで、「原子力産業が壊滅して、関連技術者が四散してしまう」という深刻な事態が、今まさに起ころうとしている。これに対し、中国は、逆に徹底的にこの分野を強化してくるだろうから、この分野での圧倒的な彼我の差が、やがては両国の「経済力」と「技術力」の優劣を決める分水嶺になるような気がしてならない。

現在の日本が取るべき基本的な外交戦略は、安全保障面では「日米同盟の強化(当然日本側の負担増が前提となる)」以外に選択肢はなく、「この上で、良好で互恵的な日中関係を築く為に最大限の努力を行う」という事に尽きるだろう。前述の三点のような「中国との関係作りの難しさ」を常に肝に銘じつつ、あらゆるチャンネルで意思の疎通を計り、万事を丁寧に、丁寧に扱っていく必要がある。

遡って、今から40年前の日中の国交回復の時の事を考えて見ると、日本側では田中首相の迅速な決断が十分評価されて然るべきだが、それ以上に高く評価すべきは周恩来首相の努力だったと私は思っている。

彼は、日本側が接触する一般民衆に事前に会って、「悪かったのは当時の日本の軍国主義者であって、現在の日本を背負っている一般民衆ではない」という主旨の事を諄々と説いまわっている。当時の中国は経済的にも苦しかった上に、ソ連の脅威もあったので、周恩来首相には「何としても日本を味方につけたい」という強い欲求があった事は想像に難くないが、その目的の為に彼が行った心配りは大変なものだった。彼は、田中首相個人の事についても事前によく調べていたが、誰かが「田中首相の女性問題」について報告した時には「そんな事は何の関係もないじゃあないか!」と声を荒げたという。彼は、田中首相と本当に良い関係を作りたかったのだ。

尖閣列島問題は、その時にも「喉に刺さった棘」として最後まで問題になったが、中国側から「この問題は次世代の叡智に委ねよう」という提案が出されて、事なきを得た。さて、あれから40年、現在の我々はその時に言われた「次世代」に該当するわけだが、残念ながら期待されたような「叡智」は持ち合わせていない。それならどうすればよいのか? 答は簡単だ。もう一度凍結(現状維持)して、「次世代の叡智に委ねる」事にすればよいだけだ。その時にもまだ「叡智」が見つからねば、また先送りにすればよい。

領土問題は、国家というものを基本とする現在の世界の統治体制においては、「ほぼ解決不能」の問題として、長期間にわたって世界の至る所に残るだろう。最終的な解決は、「世界は一つ」という思想がより広く受け入れられ、「国家意識」が希薄になるまで待たねばならないだろう。

中間措置として、「国際司法裁判所」の機能を強化し、「共同所有、共同開発」といったコンセプトの導入を推進し、利害関係のない国が紛争当事国間の斡旋に努力するというような事はありうるかもしれないが、全てにはとにかく多くの時間がかかるだろう。しかし、その事で悲観的になる必要はない。所詮は人が住んでいない島の事だ。ホトトギスは鳴くまで待てばよいだけのことだ。

さて、尖閣列島の問題だが、こんな事で中国の各地の民衆があんなに怒り狂うのは少し解せない。しかし、現時点では、各地の民衆には色々な不満が鬱積しているのに、それを表に出す事は厳しく禁止されているので、当局が「デモ」や「破壊」を認めてくれることが分れば、絶好のチャンスとばかり多くの民衆がそれに飛びつくのはよく理解できる。

とにかく、かつては紅衛兵が全国で猛威を振るい、権力の座にいた人達を片っ端から吊るし上げた実績を持つ国民だ。国が徹底的に押さえ込みにかからない限りは、止まる事を知らない程にまで拡大する懸念は十分にある。行き過ぎれば危険な事は、国のトップは十分知っている筈だが、今は新指導部への権力の移行がまさに行われようとしている時であり、かなり深刻な権力闘争が行われているかもしれないという噂すらが流れているのだから、この様な「反日運動」がその一方の勢力に利用されているという事もないとは言えない。とにかく時期が悪すぎるのだ。

そんな事は誰にでも分かっていた筈だ。それなのに、野田首相は、何故こんな時期に「急ぐ必要のない」国有化宣言を敢えてやってしまったのだろうか? それも、ウラジオストックで胡錦濤主席と立ち話ながら二人だけで話し、「そんな事はしないように」と注文を付けられた翌日に、平気な顔でこれをやってしまったというのは、どう考えても「外交音痴」と言われても仕方がない気がする。

勿論、その背景はよく理解している積りだ。数ヶ月前に石原慎太郎東京都知事が、わざわざ米国の反中国的な色彩の強い集会で「東京都による買取の意志」を発表してしまったのが事の始まりだ。石原知事は終戦の時に最も多感な少年期だったわけだから、日本が戦争に負けた悔しさは人一倍だっただろう事は理解できる。しかし、そんな個人的な感情の為に、国の重要な外交政策の選択肢が狭められたとすれば、多くの日本国民にとっては「迷惑」以上の深刻な打撃だ。

野田首相としても、「戦略上重要な島の所有権が一個人のものであるという現状には、確かに危うさが付きまとう」とは考えたのだろう。そして、「東京都が所有するというのはあまりに変だから、国として買い上げるべきだ」とも考えたのだろう。ここまでは良い。しかし、もし野田首相が外交というものの機微をほんの僅かでも理解していたとすれば、まさかこの時期に突然「国有化宣言」をするというような軽率な事はしなかっただろう。

野田首相は、都知事や地権者には、「中国の政権交代が終わって、落ち着いた状況になれば、国(或いは国がコントロールできる何等かの法人)が何らかの形で買い取る積りだから、しばらく待って欲しい」と伝え、色々な準備を万端なく済ませた上で、中国側を刺激しないような形でこれを実行するべきだった。

何故そうしなかったかは勿論私には容易に想像できる。その時期になれば野田首相はもはや政権の座にいない確率の方が高いからだ。また、恐らくは来るべき選挙を意識して、「強い首相」を演出したいという誘惑にも駆られていたのではないだろうか? しかし、これもまた多くの国民にとっては迷惑以外の何者でもない。

残念ながら、既に、中国側だけでなく、日本国民の中にも「反中」の感情がかなり拡大しつつある。この事は中国の新政権の手足もかなり縛るだろうし、日本の衆院選挙の帰趨にもかなりの影響を与えるだろう。双方とも、一歩間違えばどんどんと悪い方向へ進みかねない。過ぎてしまった事は仕方がないが、今後の事は色々と深く考えてやっていかねばならない。

「毅然たる態度」は勿論必須だ。しかし、それは「勇ましい事を言う」ことではない。むしろ正反対の事だ。「どうしても譲れない最後の一線は絶対に譲らない。しかし、そこに至るまでは、忍耐に忍耐を重ね、相手の立場もよく斟酌した上で、両者の立場が立つ新しいアイデアを色々に模索する」事こそが必須なのだ。

「外交」というものは、そんなに単純なものではない。「外交には勝者はいない」という言葉があり、多くの外交官が心に噛み締めているが、政治家も国民も今こそこの言葉を一様に噛み締めるべきだ。日本はいつまでも「外交音痴」であってはならない。