これまでの日本国債急落の場面

今回の日本国債の急落が世界の市場を揺るがすなど、久しぶりに日本国債への注目度が高まっている。ここで過去に日本国債が急落したケースをいくつか振り返ってみたい。

ロクイチ国債の暴落

国債の流動化があまり進んでいなかったころに、国債は一度大きな暴落を経験している。それが、ロクイチ国債と呼ばれた国債の暴落である。1978年は当時とすれば低金利局面であり、4月にそれまで発行された10年国債の最低利率である利率6.1%(通称、ロクイチ国債)の国債が発行された。

1979年4月以降、本格的な金利上昇局面となり、国債価格は大きく下落。景気拡大や原油価格の上昇により、6月にロクイチ国債の利回りは9%を超えてきた。この国債の下落を受けて、12月には金融機関の保有国債の評価法が、従来の低下法から原価法または低価法の選択性となった。

1980年に入り、日銀は2月、3月と立て続けに公定歩合を引き上げ、長期金利も大きく上昇し、ロクイチ国債は暴落した。4月にロクイチ国債の利回りが12%台にまで上昇し、金融機関がパニック状況に陥ったのである。その後、米国金利の急激な低下などにより債券市況は急回復したが、ロクイチ国債の暴落は大蔵省(現、財務省)の国債管理政策にも大きな影響を与えたとされる。

プラザ合意に伴う債券先物の急落

1985年10月に日本初の金融先物である債券先物取引が東証に上場された。この上場直後に債券相場は急落した。その要因は1985年9月22日にニューヨークのプラザホテルで秘密裏に開かれた会議にあった。ドルを引き下げる方向で合意した。プラザ合意である。プラザ合意が発表される前のドル円相場は1ドル242円であった。そして、合意発表後に開いた23日のニュージーランド市場では1ドル234円程度まで円高ドル安が進行したものの、大蔵省と日銀が必死の努力でドルを売り、口先介入などを行っても、そこからなかなか進まなかった。そこで日銀は、10月25日に短期金融市場を操作して第二の公定歩合といわれた短期金利の高め誘導を実施した。短期金利を高くすることで、ドル売り・円買いの動きを誘ったのである。日銀のオペで2か月物の手形レートは0.5625%上昇して7.125%となり、コールレートも上昇した。

債券先物にとってこれは最悪のタイミングであった。短期金利を無理やり上げたことで、長期金利にも上昇圧力が加わり、債券が売られる展開となったのである。債券先物市場に大量の売り注文が殺到した。そうでなくても債券はスタートしたばかりであり、ご祝儀による大量の買いポジションを抱える証券会社が多かった。売りが売りを呼ぶ展開となり2日間値がつかないという大混乱となったのである。

1985年10月24日の債券先物は101円63銭で引けていた。25日、26日は値が付かず、ストップ安で張り付いたままとなった。28日にようやく96円63銭で寄り付いたものの、その後も下げて、11月14日に安値89円82銭を付けて、ようやく底入れしたのである。実に12円近い下落であった。

債券バブル崩壊とタテホショック

5月14日、89回債は10年債でありながら、当時の代表的な短期金利であった公定歩合の2.5%に接近する。日本相互証券の端末には、89回債の売りが、2.555%に約3000億円、2.550%には約2000億円もまとまって並んでいた。ところが、それが一気に買い上げられたのである。これを全部買ったのが「公定歩合が高すぎる」というコメントをした大手証券会社のチーフディーラーともいわれている。

結局、ここで債券バブルは終焉する。この2.550%が当時の10年債の最低利回りとして記録されることになった。ちなみに債券先物は前日13日につけた119円24銭が当時の高値となる。

債券バブルの崩壊で金融機関のみならず、事業法人でも大きな損失が発生した。1987年9月2日、タテホ化学工業が債券先物で286億円もの損失を出したことが明らかになった。このニュースで債券相場は暴落(長期金利は急上昇)した。

いわゆるタテホショックである。9月3日から5日までの3日間で、89回債は1%あまりも上昇した。債券先物市場では、9月2日の終値が104円10銭だった87年12月限が、5日終値が100円30銭になった。

資金運用部ショック

1998年4月1日に日本銀行法の全文改正を内容とする日本銀行法(新日銀法)が施行された。すでに1月から金融政策決定会合が開始されていた。日銀の金融政策の決め方がこれにより大きく変わったのである。日銀は世界的な金融システム不安の台頭を受けて、1998年9月の金融政策決定会合において3年ぶりとなる金融緩和を決定した。これを受けて長期金利は低下し、初めて1%を割り込んだ。

1998年7月の小渕政権成立後、次々に経済政策が打ち出され、1998年11月16日に発表された緊急経済対策の財源として12兆円を上回る国債が第三次補正予算にて手当てされた。翌日に米国格付け会社ムーディーズが、初めて「日本国債の格下げ」を発表した。公的部門の債務膨張も格下げの大きな理由とされていた。

そして1998年の年末に翌年度の国債発行計画が発表された際、旧大蔵省資金運用部の国債引受額が減少し、国債の市中消化額が急増することが明らかにされた。大蔵省資金運用部による国債買い切りオペの中止も発表された。債券市場にとり9月に大きく買われた反動もあるなか、需給悪化につながる複数の悪材料が重なったことで、債券相場は急落した(長期金利は急騰)。

12月22日に債券先物は1988年8月以来、10年ぶりにストップ安をつけた。1999年度の運用部の国債引き受けシェアーもやはり大きく低下し、それでなくても過去最大規模の国債発行額だけに市中消化は60兆円を超えるものとなった。しかも投資家も0.9%で発行された国債などほとんど食指をみせず、ある程度の利回りが必要との見方も働いたのであろうか。追随的に正式に来年1月からの資金運用部の債券買い切りオペが中止されることが発表され、加えて日銀では50兆円にも及ぶ国債保有は異常との見方を総裁が示したことで、微かな期待の「輪番オペ増額」も否定されるにいたり、先物はついにストップ安をつけた。高値からすでに10円近く下落していた。9月に0.7%を割り込んでいた長期金利は12月30日には2%台に乗せてきた。 これはのちに「運用部ショック」と呼ばれたのである。

VARショック

2003年5月のりそな銀行に対する資本注入によって、大手銀行は潰さないといった意識が強まり、その結果、株式市場では銀行株などが買われ、海外投資家の買いなどにより、日経平均株価は2003年4月の7607.88円がバブル崩壊後の安値となり底打ちした。米国や中国などの経済成長などを背景に、日本の景気も徐々に回復し始め、その後上昇基調を強めた。

6月までは債券相場は1日あたりの値幅も限られながらも、じりじりと高値を更新し続け11日に30年債が0.960%、20年債0.745%、そして10年債0.430%とそれぞれ過去最低利回りを記録した。

この相場上昇過程において、目立ったのが都市銀行の一角や地銀を含めた銀行主体の債券買いであった。銀行などがポジションのリスク管理に使っているバリュー・アット・リスク(VAR)の仕組み上、変動値幅が少ないことでそのリスク許容度がかなり広がりをみせていた。日銀の量的緩和政策に加え、株価の低迷にともなって債券での収益拡大の狙いもあり、必要以上にポジションを積み上げ、異常なほどの超低金利を演出した。

しかし、これもいわゆる債券バブルに近いものとなり、6月17日日経平均株価が9000円台を回復し、この日実施された20年国債の利率が1%割れのクーポンとなり、大手投資家などが超長期国債の購入を手控えたことをきっかけにして、債券相場が急落したのである。 147日から19日の3日間で先物は、144円76銭から141円80銭に急落した。10年債利回りも0.730%、20年利回りも1.075%にまで利回りが上昇したのである。この暴落はVARショックと呼ばれた。

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編集部より:この記事は、久保田博幸氏のブログ「牛さん熊さんブログ」2016年8月5日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。