不登校を治すには〜アドラー心理学を利用して --- 天野 信夫

寄稿

自分の病気を意識下では治りたい治したいと思っているのに、体の具合が悪いことで周囲が心配してくれるとか、病気のままなら仕事や苦しさから逃避できることなどを潜在意識の中で願ってしまう、そういう心の働きがあります。意識では治りたいと思いながら、心の奥では治りたくないという矛盾した思いが強く働いている状態です。病気の症状のままで利を得ようとするこの心の有り様を、「病症利得」と言うそうです。

私がこの言葉を聞いて、一番該当するのは不登校だと思います。本人は、「今のままではいけない」「何とかしなくては」と強く意識しています。ところが、今の状態は苦しい状態ですが、同時に、外の厳しい現実とは向き合わずに済むそれなりに安定している状態でもあります。

今の不登校の状態から抜け出すためには、いったんは自分の殻を破り、外の厳しい現実と再度向き合わなければなりません。でもそうすれば、心は不安定になり、また傷つくかもしれません。それは恐ろしいことです。やっぱり「今のままの方がよい」と考えて、再び心の殻を閉ざします。

意識下では治したい登校したいと強く願いながら、不登校のままの状態を本人も気づかない心の底では望んでいます。矛盾した心の状態の中で膠着し立ち竦んでいます。だから不登校はなかなか治せません。一番苦しんでいるのは本人であることは間違いありません。

意識下では治したいという心と、潜在意識の中では治りたくないという心とが、同一の本人の心の中で矛盾して存在している心の有り様が、不登校の問題を難しくさせています。不登校を治すには、この矛盾した心をひとつにする必要があります。

「不登校でも構わない」、本人の心をこれに一本化する方法は、とりわけ長期化した不登校に対してよく試みられます。私は専門家ではありませんが、多分正解だろうと思います。但し、難しい問題があります。「不登校でも構わない」という心に、本人の心をなかなか一本化できないのです。

「不登校でも構わない」と言いながらも、親を始め周囲は、出来れば登校させたいと本心では思っています。不登校を治そうとする周囲の意欲や意志が、それでなくても敏感になっている当該の子どもに感じ取られているうちは、不登校はなかなか治らないでしょう。周囲が自分の不登校を治そうとしているということは、自分が置かれている今の状態が「まずいこと」であると本人に再認識させてしまうからです。

登校したくても登校できないという自責の念を、子どもと同時にその親も持っているでしょう。子どもは自らの自責の念に苦しむと同時に、親の自責の念をも敏感に感じ取って、「私は親に心配を掛ける悪い子」とまた苦悩することになります。

不登校の事例の中には、学校や教師に責任の一端があることは間違いありませんが、親子が共にその自責の念を少しでも和らげるため、不登校の原因をクラスのいじめとか教師の不用意な一言とか、あえて学校の環境に求めることもあります。なかなか難しいことですが、心の一本化は、不登校の子どもよりもまず周囲、とりわけその親に求められていることになります。

不登校の子の大半は、自分の心が弱いから登校ができないと自分を責めています。あるいは、登校できないのは親のこれまでの躾のせい、学校であったいじめのせいと、他人を責めています。親も、我が子の心が弱いと考えて、我が子を責め、そういう子に育てた自分を責め、学校や担任を責めています。親子は共に不登校の原因をあれこれと探しています。原因を過去に求める原因論の考え方です。でも、残念ながら過去は変えることができません。

発想を転換します。自分の心が傷つかないようにするために不登校を選択している、と考えます。「不登校でも構わない」を更に一歩進め、選択肢の一つとして積極的に「不登校を選択している」のです。自分の心が傷つかないようにするための選択肢は不登校でなくてもいいわけですが、たまたま自分は今不登校を選択している、と考えます。心が傷つかないようにするため、という目的に心を向けます。目的は未来にあり、未来は変えることができます。やがて、不登校以外の選択肢にも心が向きます。原因論に対する、目的論の考え方です。

最近、「アドラー心理学入門(岸見一郎著)」という本を読みました。原因論目的論が説明されていました。間違っているかもしれませんが、この考え方は不登校にも利用できるな、と思い付いて書きました。他のことにもたくさん応用できそうな気がします。

天野 信夫 無職(元中学教師)