郡を知らずして日本史を語れず

2017年07月30日 06:00

『消えた都道府県名の謎 (イースト新書Q)』というマニアックな本を出したら好評だったので、姉妹編で 『消えた市区町村名の謎 地名の裏側に隠されたふるさとの「大人の事情」』 (イースト新書Q)を刊行したことは、すでに「消えた1万市町村名の謎を追う」というタイトルで紹介した。

今日は、そのなかで扱った郡について紹介したい。

郡は律令制の空洞化に伴い、正式の行政単位ではなくなった。しかし、もともと河川流域などを考慮した自然の摂理にあったものなので意識の上では帰属意識も強く根付いたもののだった。また、幕府が領地を与えるときも、郡の単位で与える事は多く、藩内の統治単位としては重要だった。

そして、明治11年(1878年)に大区・小区制の行き詰まるののち、郡を復活させ、町村制を再活性化させることが図られた。

同時に、主要都市には区が設けられ、その区域は伝統的な郡から離脱し、これが、市町村制ができたのちは、市に引き継がれて、市になると郡から離脱した。しかし、当初は市の数は30ほどでし市域も狭かったので、国土の大部分はどこかの郡に属していた。

郡会が設けられ、議員は3分の2が各町村議会の互選、残りが所有地価が1万円以上の大地主の互選(のちに直接選挙による選出)、郡参事会は郡長と府県知事が任命する郡参事会員(名誉職)により構成されていました。

そして各郡に1人(小さい郡の場合は数郡に1人)の郡長を配置し,その事務所として郡役所を設置して,郡には実質的な行政区画としての機能が与えられた。

次いで1890(明治23)年5月に府県制および郡制が公布された。これにより郡には府県と市町村の中間行政機関としての性格が規定され,さらに議会(郡会)が設置されて自治体としての機能も与えられた。

このとき、律令制のもとでの郡は、もともと、その区域の広さがまちまちで、国によって非常に細かく別れているところと、大ぐくりのものとがあった。また、中世から江戸時代にかけて若干の変更もあった。

しかし、本格的な行政単位とするには、極端に大きいものも小さいものも困るので、明治11年(1878年)の郡区町村編制法のときや、明治23年(1890年)の郡制発足を機に整理されました。

大阪府の旧河内国では、石川郡、錦部郡、八上郡、古市郡、安宿部郡、丹南郡、志紀郡が南河内郡に、丹北郡、高安郡、大県郡、河内郡、渋川郡が中河内郡に、茨田郡、交野郡、讃良郡が北河内郡になった。

一方、青森県では津軽郡が北津軽郡、西津軽郡、中津軽郡、南津軽郡、東津軽郡に、北郡が下北郡と上北郡と分割された。三戸郡と二戸郡はそのままだった。

郡制度は,中央統制を全国津々浦々に及ぼすためのものだったから、政党勢力には好まれず、1923(大正12)年には自治体としての郡(郡会および郡の自治財政)が廃止され、1926(大正15)年には行政官庁としての郡(郡長および郡役所)も廃止された。

現在は、条例で統廃合や名称の変更ができるようになった。

昭和にあっては、①群馬県群馬郡からの北群馬郡の分離(1949年),②三重県安濃郡と河芸郡の合併による安芸郡の設置(1956年),③長野県西筑摩郡の木曽郡への改称(1968年),⑤島根県隠岐4郡の合併による隠岐郡の設置(1969年),⑥ 鹿児島県囎唹郡の曽於郡への表記変更(1972年)があった。

平成の大合併の過程でも、①岡山県で上房郡賀陽町と御津郡加茂川町が合併して吉備中央町となるのに伴い加賀郡設置、②石川県鳳至郡能都町・柳田村・珠洲郡内浦町が合併して能登町が発足したので能登町および鳳至郡穴水町・門前町の区域をもって鳳珠郡を新設などがあった。

そういう郡の変遷も詳しく表で紹介している。

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八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学教授

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