立憲民主党「憲法に関する当面の考え方」でわかること

2017年12月09日 12:00

8日、立憲民主党の第4回憲法調査会で発言する枝野代表(公式サイトより:編集部)

前回・前々回ののブログでは、山尾志桜里議員の改憲案について、批判的な文章を書いた。

山尾志桜里議員の「自衛権=透明人間」論に呆れる

憲法学者独裁の憲法裁判所は危険だ

その後、『iRONNA』さんの依頼で、山尾議員の政策顧問である倉持麟太郎氏の改憲案について批判的な記事を書かせていただいた。

ただしもともとは、それより以前のブログで、「立憲主義違反」を国会で叫ぶ枝野幸男代表について書き、立憲民主党はきちんと議論を提示するべきだ、と書いたのがきっかけだった。

枝野代表の説明責任を果たしてほしい:砂川事件最高裁判決を読む

12月7日、立憲民主党が、公式に「憲法に関する当面の考え方 」という文書をまとめた。残念ながら、私が期待する「議論」はなく、説明なき断定調の言葉が並ぶものだ。ただし立憲民主党の立場は、鮮明になったところはあるのだろう。これによってわかることもあった。

まず、山尾議員=倉持顧問の改憲案は、実際には立憲民主党が採用することは難しいことが明らかになった。立憲民主党の「憲法に関する当面の考え方」は、9条には手を触れさせない、その他の条項での改憲を議論する、というものだ。山尾議員=倉持顧問の改憲案と、鋭く対立する。

もともと彼らは皆、「アベを許さない」運動を推進している憲法学者らとともに、自衛隊の合憲性を明記した9条3項を加えると、今まで自衛隊が違憲だったことを認めることになるぞ、と脅かしている方々だ。実は、この考え方にしたがいながら、山尾議員=倉持顧問が主張する個別的自衛権の合憲性を明記する改憲を行うと、今まで個別的自衛権が違憲だったことになる。

「アベ改憲は反立憲主義、反アベ的改憲は立憲主義」という情緒的スタンスが基本なので、ご本人方は気にしていらっしゃらないようだが、論理的には錯綜した言説が羅列されているのである。

実は枝野幸男・立憲民主党代表自身が、2013年には「加憲」型の改憲案を提案した人物である。そのときの主張が今どうなっているのか、いまだご本人はきちんと説明していない。

憲法学会の「隊長」である長谷部恭男教授は、今までの政府見解で自衛隊は合憲だったので、アベ改憲は必要ではない、と反対する。他方、2013年の「枝野氏の改憲案」については、「従来の政府解釈を憲法に明文化しようとしたもの」だという理由で、擁護する。非常に難解だ。

枝野氏と長谷部教授のダブスタ:枝野氏指導の憲法学者小嶋氏の補足

2013年当時枝野論文を批判した日本共産党は、今年は、立憲民主党に配慮して衆議院選挙で候補者調整を行った。山尾議員の選挙区でも、共産党は候補者擁立を見送ったのである。枝野代表は、山尾議員・倉持顧問とともに、自らの過去も切り捨てるのか。あるいはやがて共産党を切り捨てるのか。どうするつもりなのか、明言はしていない。しかし選挙をへて、前者のオプションに傾いているようである。

衆議院選挙前の民進党分裂時に、枝野幸男代表は求心力を高めた。「アベを許さない」勢力は、枝野議員以外の政治家や、枝野代表の過去の論文や、論理的一貫性それ自体までも捨て去ってでも、枝野代表の求心力だけを守り通そうとしているのだろう。政論としては、それはわかる。だが果たしてそれは持続的な態度だろうか。

立憲民主党の「憲法に関する当面の考え方」を、もう少し詳しく見てみよう。(※アゴラ編集部注:立憲民主党サイトの当該URLは9日正午時点で失効)。

まず冒頭で、「基本姿勢」として、以下のような「立憲主義」理解が示される。

「『国家権力の正当性の根拠は憲法にあり、あらゆる国家権力は憲法によって制約、拘束される。』という立憲主義を守り回復させる。憲法に関する議論は、立憲主義をより深化・徹底する観点から進める。」

立憲主義理解については、やはり以前のブログで何度か書いた。立憲民主党的な立憲主義の理解の問題点は、「国家権力を制限することが立憲主義」という理解が自己目的化している点である。憲法が定める理念によって国家権力が制約されなければならないことは自明だ。しかしそれは、なんでもかんでもとにかく少しでも国家権力が制限されれば、それで立憲主義が一歩進んだことになる、といった暴力的な議論とは違うはずだ。

残念ながら、立憲民主党の「憲法に関する当面の考え方」には、「何のために国家権力を制限するのか」の視点が、依然として希薄だと言わざるを得ない。提案されている「臨時会招集要求」や「衆議院の解散」などは、かなり具体的な「アベを許さない」の政論の話になっており、長期的な視野に立った国家の在り方の話に見えない。「国家権力=自民党=アベ政治を制限することが立憲主義だ」、という話である。同じ主張をするにしても、もう少し高次元の国家の在り方に関する議論を、後世の日本人に対しても責任を果たしうる形で、提示していただくことはできないのか。

もっとも今回の立憲民主党の「当面の考え方」のポイントは、9条をめぐる部分であろう。そこでは安保法制と自衛隊加憲論に対する反対姿勢が明示されている。まず安保法制反対の「考え方」を見てみよう。

「○ いわゆる安全保障法制について 日本国憲法 9 条は、平和主義の理念に基づき、個別的自衛権の行使を容認する一方、日本が攻撃されていない場合の集団的自衛権行使は認めていない。この解釈は、自衛権行使の限界が明確で、内容的にも適切なものである。また、この解釈は、政府みずからが幾多の国会答弁などを通じて積み重ね、規範性を持つまでに定着したものである。集団的自衛権の一部の行使を容認した閣議決定及び安全保障法制は、憲法違反であり、憲法によって制約される当事者である内閣が、みずから積み重ねてきた解釈を論理的整合性なく変更するものであり、立憲主義に反する。」

言うまでもなく、9条は、個別的自衛権・集団的自衛権の区別はもちろん、「自衛権」それ自体についてもふれていない。それにもかかわらず「個別的自衛権は合憲だが集団的自衛権は違憲だ」という「解釈」を引き出すためには、少なくとも何らかの説明が必要なはずだ。この「当面の考え方」において「説明」と言えるのは、せいぜい9条が「平和主義の理念」を採用している、という記述くらいだろう。だがこのような大胆なまでに大雑把な説明は、1972年~2014年の間の政府の説明で採用されていた説明ですらない。なぜ個別的自衛権=平和主義、集団的自衛権=反平和主義なのか。それぞれについて、もっときちんとした説明をするべきではないか。

「この解釈は、自衛権行使の限界が明確で、内容的にも適切なものである」と断言するが、これでは説明になっていない。私に言わせれば、そもそも個別的自衛権OK、集団的自衛権ダメ、といった議論で「自衛権行使の限界が明確」になると考えるということ自体が、恐ろしくナイーブな話である。拡大解釈濫用の危険性があるのは、個別的自衛権でも集団的自衛権でも同じだ。個別的自衛権ならOK、で全てが明確になるなどということは、ありえない。事実、「日本が攻撃されていない場合の集団的自衛権行使」が違憲だという立憲民主党の文章自体が、日本が攻撃されている場合の集団的自衛権行使なら合憲だ、と読み取れる曖昧な文章になっている。日本が攻撃されてさえいれば、憲法学者が嫌いな「地球の裏側の集団的自衛権」でも許されるのか。それでは、「日本が攻撃されている場合」とは、どんな場合なのか。国家は自然人ではない、一つの制度である、という点を全く考慮していない。自衛権行使は、局地的な瞬間だけで一回一回完結するものではない。

立憲民主党は、「専守防衛」にこだわる。それなら「専守防衛主義」だけを掲げればわかりやすいのだが、専守防衛だから個別的自衛権だけが合憲で集団的自衛権は違憲になる、というのは、恣意的に選んだ特殊な事例にもとづいて、自衛権一般の合憲性を判断する視野の狭い議論だ。2013年の論文では、枝野代表自身が、たとえば米艦防護が、個別的自衛権の行使になるか集団的自衛権の行使になるかは、重要な点ではない、と書いていた。

だがここで本当に問題なのは、そういうことではない。「平和主義」が個別的自衛権だけを合憲とすることが主張の骨格だという宣言をしておきながら、次の瞬間には「国家権力を制限する立憲主義が素晴らしい」という話に、議論をすり替えていることが、問題である。自衛権を完全否定しないのであれば、自衛権行使に「平和主義」の要素があることを認めているわけだろう。つまり実際にはどこまでも果てしなく限界を設ければ平和主義が深まる、と立憲民主党も考えているわけではない。では、それは、どんな平和主義なのか。「アベを制限する者が立憲主義者」論に安易に逃げることなく、きちんと説明するべきだ。

なお「政府みずからが幾多の国会答弁などを通じて積み重ね」た説明を修正すると、「憲法違反」になるとまで言えるのか、については、すでに相当に議論がなされている点だろう。政府が過去の答弁内容を修正すると、「憲法違反だ!なぜなら過去の政府答弁こそが憲法だからだ」、となるというのは、どう考えてもおかしい。私などは、集団的自衛権違憲論は、むしろ単なる「団塊の世代中心主義」だと言っている。立憲民主党には、もう少し将来の世代に責任を果たす覚悟を感じさせる前向きな議論を示してほしい。

次に加憲論についてみてみよう。

「○ いわゆる自衛隊加憲論について現行の憲法 9 条を残し、自衛隊を明記する規定を追加することには、以下 の理由により反対する。① 「後法は前法に優越する」という法解釈の基本原則により、9 条 1 項 2 項の規定が空文化する。この場合、自衛隊の権限は法律に委ねられ、憲法上は、いわゆるフルスペックの集団的自衛権行使が可能となりかねない。これでは、専守防衛を旨とした平和主義という日本国憲法の基本原理が覆る。②現在の安全保障法制を前提に自衛隊を明記すれば、少なくとも集団的自衛権の一部行使容認を追認することになる。集団的自衛権の行使要件は、広範かつ曖昧であり、専守防衛を旨とした平和主義という日本国憲法の基本原理に反する。③権力が立憲主義に反しても、事後的に追認することで正当化される前例となり、権力を拘束するという立憲主義そのものが空洞化する。」

こちらは端的に、論理展開がよくわからない。さらにそこに「フルスペック」云々といった憲法学特有のジャーゴンが散りばめられているため、いっそう理解しにくい文章になっている。

なぜ自衛隊を明記すると、9条1項2項が空文化するのか。「後法は前法に優越する」とつぶやくだけでは、「空文化」といったことまでの説明にならない。なぜ自衛隊を明記すると、違憲であったはずの集団的自衛権が「フルスペック」に発生してくるのか。これでは、立憲民主党は現在の自衛隊をどう捉えているのか、そこも心配になってくる。

私個人の話をすると、現行9条であっても「軍隊」の存在を否定しない、という解釈で、本まで出している(私は自衛隊ではなく軍隊の存在の合憲性を明記するべきだと言っている)。現行9条が集団的自衛権を禁止している、という解釈も、冷戦時代の詭弁にすぎず、本質的には憲法論ではないと考えている。

立憲民主党にとっては、私などは単に「反立憲主義」的人間だというだけの存在で、一つの解釈提示者としての認知もない。立憲民主党の批判ばかりをしたいわけではないが、立憲民主党が政権をとったら、ずいぶんと暮らしにくくなるなあ、というのは率直な思いではある。

いかにちっぽけな一学者にすぎないとはいえ、自分の存在が完全否定され、無に等しい扱いを受けているというのは、もちろん面白い話ではない。そこで、せめてなぜそうなのか、もう少し責任感のある説明を施してほしいと思わざるをえない次第である。


編集部より:このブログは篠田英朗・東京外国語大学教授の公式ブログ『「平和構築」を専門にする国際政治学者』2017年12月9日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。

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