「オウム真理教」元代表・松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚(63)と元幹部死刑囚6人の刑が執行された。「オウム真理教」による地下鉄サリン事件は残虐な無差別テロ事件であり、日本だけではなく、世界を震撼させた。大量破壊兵器の化学兵器が都市で実際使用されたテロ事件だった。
当方は事件当時、既に欧州に居住していたので、事件の生々しさやその後の騒動は良く知らない。事件は「オウム真理教」という宗教団体によるテロ事件だったことは間違いない。不明な点は、なぜ宗教団体が大量殺人を犯したかという点だが、松本死刑囚が裁判で何も語らなかったので不明のままに終わってしまった。
同事件から「だから宗教は恐ろしい」という宗教フォビアが煽られる一方、「オウム真理教は宗教ではなかった」と主張する声が聞かれる。当方は両者の声に懸念を感じる。決定的な事実が看過されているように感じるからだ。
「オウム真理教」は一定の教義を掲げた「宗教」団体としてスタートしたはずだが、“ある時点から”その宗教性を失っていったのではないかと考えているからだ。
それでは、なぜ宗教団体がある日、暴力グループ、テロ組織に転身したかを誰にも分かるように説明することは松本本人も難しかったのではないか。「オウム真理教」が単なる人生の生き方を教える学習塾や修練場だったら、「オウム真理教」は存続し続けることができたかもしれないが、神、仏を説き、不可視の世界を説き始めたゆえに、堕ちてしまったと考える。
宗教は基本的に人間の在り方、生き方を説く。そして神や仏との精神的な交流を大切にする。同時に、その主要世界は不可視世界(霊界)だ。一方、大多数の人は可視の世界に生き、不可視の世界の存在については懐疑的だ。特に、日本人の場合、戦後、米国式民主主義を学校で学ぶ一方、神、仏に関する宗教教育を受けることはなかった。唯物思想が席巻し、進化論があたかも真理のように取り扱われてきた。宗教はそのような世界観と180度異なる内容を重視し、それを教える。
そのような社会に突然、「オウム真理教」と名乗る宗教団体が登場し、不可視の世界にスポットライトを当てた。多くの若者がそのような世界観に違和感をもつ一方、魅力を感じる若者も出てきた。しかし、社会の多数派は可視の世界を重視する人々で構成されているから、彼らはあくまでも少数派だ。社会から中傷、偏見を受けるかもしれない。迫害を受ければ、不可視の世界を信じる人々は一層、その信仰を強めていく。
問題は、宗教の最大の敵は社会の多数派による迫害ではなく、不可視の世界の存在を信じる人々を抹殺しようとする勢力が存在することだ。宗教用語ではそれを「悪魔」と呼ぶ。悪魔は有史以来、自身の存在を隠蔽してきた。可視の世界に生きる人間が不可視の世界の存在に気が付かないようにさまざまなトリックを繰り返してきた。宗教団体はそのような世界に踏み込むから、悪魔にとって最も憎むべき存在となる。宗教団体が神に近い組織であればあるほど悪魔の攻撃を受け、抹殺される。宗教に迫害が絶えないのは、繰り返すが、可視の世界で生きる多数派による迫害ではなく、悪魔が攻撃するからだ。
少し例を挙げて説明する。世界最大の宗教キリスト教の歴史を思い出してほしい、初期キリスト教会は純粋なイエスの教えを信望しながら生きてきた。時代の経過と共に、キリスト教は分裂し、腐敗していった(「バチカンに住む『亡霊』の正体は」2018年5月30日参考)。世界最大のローマ・カトリック教会の聖職者の未成年者への性犯罪は後を絶たない。数万人の聖職者が未成年者に性犯罪を犯していても、「ローマ・カトリック」教会を組織犯罪グループに入れ、解体すべきだという声は上がってこない。理由は簡単だ。ローマ・カトリック教会の勢力が大きく、地上の既製権力と密着しているからではない。悪魔にとって都合がいいからだ。「それ見ろ、神だ、愛だと主張する教会の実態はこれだ」と呟き、多くの人々を神から遠ざけるために都合がいいからだ。
「オウム真理教」もある時から悪魔の誘惑と攻撃に晒されたはずだ。そして最終的には悪魔の手先となって大量殺人をするグループとなった。「オウム真理教」は元々組織犯罪グループとして誕生したのではない。神や仏、不可視の世界の存在について語ったはずだ。結果的には、オウム真理教は組織犯罪より大きな犯罪を犯してしまったわけだ。
「宗教の名で人は最悪の犯罪を犯す」といわれる。イスラム過激テロ組織「イスラム国」(IS)を思い出せば分かる。神、アラーを説きだした瞬間、悪魔が傍にきて笑みを見せる。多数の人々が「宗教はやっぱり怖い」という教訓を「オウム真理教」のテロ事件から得てくれれば、悪魔にとって大成功だ。
一方、「オウム真理教」を宗教でなないと主張する有識者もいるが、事実ではない。イスラム系テロ事件が発生する度に、イマームが「それは本当のイスラム教ではない」と一蹴するのと同じ論理だ。「オウム真理教」はれっきとした宗教団体だったが、悪魔の攻撃に負け、大犯罪を犯したのだ。繰り返すが、「オウム真理教」が宗教を土台としていなければ、地下鉄サリン事件のような犯罪は起きなかったかもしれない(「“本当”のイスラム教はどこに?」2015年1月24日参考)。
優秀で純粋な青年たちが惹かれていった「オウム真理教」がどのような試練を受け、悪魔の手先となっていったかはオウム内の事情に通じた人しか分からないだろう。特に、「オウム真理教」創設者、松本死刑囚にどのように悪魔から囁きがあったかは本人以外分からない。ひょっとしたら、本人すら認識していなかったかもしれない。
「神の存在」の有無論争も貴重だが、「悪魔の存在」を理解する必要がある。ローマ法王故ヨハネ・パウロ2世もフランシスコ法王も説教の中で頻繁に「悪魔」について語る。「悪魔」はファンタジーの所産ではなく、実際に存在し、人間に様々な業を起こさせる実在の存在だ。
イギリスの歴史家ジョン・アクトン(1834~1902年)は「権力は腐敗する、絶対的権力は絶対に腐敗する」という有名な格言を残した。その名言に倣うならば、「宗教は腐敗する、絶対的宗教は絶対に腐敗する」というべきかもしれない。なぜならば、悪魔が必ず近づいてくるからだ。
不可視の世界に足を踏み入れた「オウム真理教」は悪魔の絶好のターゲットとなった。
フョードル・ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の主人公イワンが「神がいなければ全てが許される」と語る個所があるが、「オウム真理教」は「神がいなければ全てが許される」世界に陥ってしまったのだろう。
宗教の世界、不可視の世界に対し免疫が少ない多くの日本人はそれだけ悪魔の業に弱い。松本死刑囚の刑が執行されたが、「オウム真理教」テロ事件は戦後の日本人に貴重な教訓を残したというべきだろう。
<参考>
「悪魔(サタン)の存在」2006年10月31日
「『悪魔』とその助っ人たち」2011年8月25日
「『悪魔』と戦ったエクソシストの『死』」2016年9月20日
「ローマ法王『悪魔は君より頭がいい』」2017年12月15日
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2018年7月11日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。