厳罰化傾向とマスコミ報道 - 岡田克敏

2009年06月04日 14:02

 「右の頬を打たれたら左の頬も出せ」。かつてよく耳にした言葉です。行うのは簡単ではありませんが、憎悪と報復の連鎖によって二つの民族が果てしない悲惨な状況に陥る例などを見るとこの言葉が思い出されます。このように極端でなくとも、赦すという寛容さは民族間だけでなく諸々の集団の間、あるいは個人間でも重要な意味を持ちます。


 「赦すこと」と「報復すること」が同時に満たされることは通常ありません。トレードオフの関係と言ってよいでしょう。そして両者には一定のバランスが保たれていたと考えられます。ところが報復感情を重視する近年の風潮はこのバランスを変化させ、その結果、社会から赦すという寛容さが徐々に失われてきたように感じます。この傾向はモンスターペアレントなどの活躍や医療訴訟の増加とまったく無関係とは言い切れないと思います。

 マスコミは常に被害者の側に立って報道します。そして裁判の前には「極刑を望みます」といった、被害者の報復感情を露わにした発言を好んで取り上げます。これはほぼ慣例化しているようであり、マスコミが報復感情を後押しているという印象があります。

 ある事件の一連の報道は勧善懲悪劇に似ています。加害者という悪人が厳罰を受けることによって被害者は報復を果たすという筋書きは読者・視聴者に一種のカタルシスをもたらします。劇を面白くするためには加害者の悪事は大きく、被害は深刻に見せることが効果的です。ここにニュースキャスターなどが正義の代弁者として登場すると、面白い上に読者・視聴者の支持を得られるというわけです。被害者に感情移入した読者・視聴者の報復感情を満たすことは劇の重要な要素です。

 福岡の飲酒運転事故の二審判決は危険運転致死傷罪と道路交通法違反とを併合して懲役20年となり、一審の業務上過失致死傷罪による懲役7年6月に比べて格段の重罰となりました。一審判決直後の各紙(日経を除く)の報道と論調は悲惨さを強調し、厳罰を求めるものが主であり、二審判決はそれに沿った形となりました(死亡事故へと拡大した一因は道路にガードレールのような車両用の転落防止策がなかったことですが、考慮されませんでした。確かにこの方がわかりやすく、マスコミの論調とも整合します)。

 最近の刑事裁判では重罰化の傾向が指摘されていますが、これにはマスコミの報道が影響しているように思えてなりません。検察は「被害者とともに泣く検察」として被害者のためにやってきたのだが、サリン事件における検察への批判を境に主権者である国民の理解と支持を得る方向に大転換したという意味のことを、但木前検事総長は述べています(4/26NHK日曜討論)。ポピュリズムへの傾斜とも受けとれます。

 「国民の理解と支持を得るため」とは聞こえのよい言葉ですが、具体的にはどうするのでしょうか。検察の行動や裁判の結果にいちいちアンケート調査をするわけではなく、現実にはマスコミが世論のように見せているもの、つまりはマスコミに従うことに過ぎないのではないでしょうか。

 東京女子医大で心臓手術を受けた女児が死亡した事故で、業務上過失致死罪に問われた医師は警察で次のように言われたと記しています(参考拙記事)。

 『これだけ社会問題になると、誰かが悪者にならなきゃいけない。賠償金も遺族の言い値で払われているのに、なぜこんな難しい事件を俺たちが担当しなきゃいけないんだ』

 この発言は、マスコミ報道が警察に(恐らく検察にも)対して、いかに大きい影響を与えるかを示しています。「国民の理解と支持を得るため」とはこのようなことを指すのでしょうか。被害者よりの誇張された報道が警察・検察を動かし、裁判にも影響を与えるというわけです。警察・検察がマスコミの下部機関のようになるのではないでしょうか。

 刑罰の基準は社会により様々であり、絶対的な基準などありません。それぞれの社会が任意に決めるべきことです。しかし視聴率優先といったマスコミの営業政策から生まれた興味本位の報道によって、報復が正当化されて厳罰化が起き、その結果、社会から寛容さまでもが失われるのならば、ちょっと見過ごせない問題だと思います。

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