厳罰化傾向とマスコミ報道 - 岡田克敏

岡田 克敏

 「右の頬を打たれたら左の頬も出せ」。かつてよく耳にした言葉です。行うのは簡単ではありませんが、憎悪と報復の連鎖によって二つの民族が果てしない悲惨な状況に陥る例などを見るとこの言葉が思い出されます。このように極端でなくとも、赦すという寛容さは民族間だけでなく諸々の集団の間、あるいは個人間でも重要な意味を持ちます。


 「赦すこと」と「報復すること」が同時に満たされることは通常ありません。トレードオフの関係と言ってよいでしょう。そして両者には一定のバランスが保たれていたと考えられます。ところが報復感情を重視する近年の風潮はこのバランスを変化させ、その結果、社会から赦すという寛容さが徐々に失われてきたように感じます。この傾向はモンスターペアレントなどの活躍や医療訴訟の増加とまったく無関係とは言い切れないと思います。

 マスコミは常に被害者の側に立って報道します。そして裁判の前には「極刑を望みます」といった、被害者の報復感情を露わにした発言を好んで取り上げます。これはほぼ慣例化しているようであり、マスコミが報復感情を後押しているという印象があります。

 ある事件の一連の報道は勧善懲悪劇に似ています。加害者という悪人が厳罰を受けることによって被害者は報復を果たすという筋書きは読者・視聴者に一種のカタルシスをもたらします。劇を面白くするためには加害者の悪事は大きく、被害は深刻に見せることが効果的です。ここにニュースキャスターなどが正義の代弁者として登場すると、面白い上に読者・視聴者の支持を得られるというわけです。被害者に感情移入した読者・視聴者の報復感情を満たすことは劇の重要な要素です。

 福岡の飲酒運転事故の二審判決は危険運転致死傷罪と道路交通法違反とを併合して懲役20年となり、一審の業務上過失致死傷罪による懲役7年6月に比べて格段の重罰となりました。一審判決直後の各紙(日経を除く)の報道と論調は悲惨さを強調し、厳罰を求めるものが主であり、二審判決はそれに沿った形となりました(死亡事故へと拡大した一因は道路にガードレールのような車両用の転落防止策がなかったことですが、考慮されませんでした。確かにこの方がわかりやすく、マスコミの論調とも整合します)。

 最近の刑事裁判では重罰化の傾向が指摘されていますが、これにはマスコミの報道が影響しているように思えてなりません。検察は「被害者とともに泣く検察」として被害者のためにやってきたのだが、サリン事件における検察への批判を境に主権者である国民の理解と支持を得る方向に大転換したという意味のことを、但木前検事総長は述べています(4/26NHK日曜討論)。ポピュリズムへの傾斜とも受けとれます。

 「国民の理解と支持を得るため」とは聞こえのよい言葉ですが、具体的にはどうするのでしょうか。検察の行動や裁判の結果にいちいちアンケート調査をするわけではなく、現実にはマスコミが世論のように見せているもの、つまりはマスコミに従うことに過ぎないのではないでしょうか。

 東京女子医大で心臓手術を受けた女児が死亡した事故で、業務上過失致死罪に問われた医師は警察で次のように言われたと記しています(参考拙記事)。

 『これだけ社会問題になると、誰かが悪者にならなきゃいけない。賠償金も遺族の言い値で払われているのに、なぜこんな難しい事件を俺たちが担当しなきゃいけないんだ』

 この発言は、マスコミ報道が警察に(恐らく検察にも)対して、いかに大きい影響を与えるかを示しています。「国民の理解と支持を得るため」とはこのようなことを指すのでしょうか。被害者よりの誇張された報道が警察・検察を動かし、裁判にも影響を与えるというわけです。警察・検察がマスコミの下部機関のようになるのではないでしょうか。

 刑罰の基準は社会により様々であり、絶対的な基準などありません。それぞれの社会が任意に決めるべきことです。しかし視聴率優先といったマスコミの営業政策から生まれた興味本位の報道によって、報復が正当化されて厳罰化が起き、その結果、社会から寛容さまでもが失われるのならば、ちょっと見過ごせない問題だと思います。

コメント

  1. アンチ巨人、アンチナベツネ より:

    初めて読ませていただきました。メディアの傲慢、不遜については、まったく同意です。事件報道については、数年前までは逆に加害者側ばかりにたった報道がなされていたと思います。数万件に一件もあるかないかの冤罪を鳥越などが大きくとりあげますが、かって冤罪のヒーローといわれた容疑者の自宅から白骨死体がみつかった件ではまったく、後追い報道なしとか。最も許せないのはテレビ局員の婦女暴行や横領は、ほとんど実名報道なく、クビにもならずに、岡田様がご指摘のように教師や官吏については容疑者段階で修復不能な報道をすることです。刑法39条の適用でも、結局マスコミの論調によって、その時代ごと、あるいは事件ごとに変化してしまうと実感します。これは日本人の国民性などではなく、池田先生の言われるようにすべては、新聞、テレビの資本系列が同じで、テレビ局の新規参入がなされない電波利権によるものだと思います。これからも読ませていただきます。
     参考までに
    http://blog.livedoor.jp:80/ksytkak/

  2. キーン より:

    まるでマスコミが制作する「時代劇」ですね。

    被害者がどんなに悲惨な目に遭ったかをアナウンサーが大げさに演じ、
    遺族がどんなに悲しんでいるかを家に押しかけてマイクを向け、
    視聴者の憤りを高めたところで、厳罰→スッキリさせるという、
    時代劇のようなエンターテインメントで視聴率を取る作戦ですね。

    子供やお年寄りを無差別に殺す犯罪者、特に現行犯逮捕で冤罪の
    可能性がないケースについては、死刑は適当と考えていますが、
    だから視聴率を取るためのエンタメ番組してよいかは別でしょう。

    まあ、マスコミの演出に載せられて厳罰を下す裁判所も、
    そういう番組を楽しむ視聴者も同じ穴のムジナではありますが。

  3. courante1 より:

    コメント、ありがとうございます。

     アンチ巨人、アンチナベツネ 様
    以前の、加害者の人権や更正が重視され、被害者が軽視されていたことへの反省がひとつのきっかけになったと思います。

     キーン 様
    >そういう番組を楽しむ視聴者も同じ穴のムジナではありますが
    おっしゃる通り、問題の根底にあるのはそれですね。

  4. ken1ohki より:

    >一審の業務上過失致死傷罪による懲役7年6月に比べて格段の重罰となりました。

    この事故以降、飲酒運転に対する世論は厳しくなりましたが、7年半の刑期が軽すぎるとの思いは、遺族だけでは無かった様に思います。
    車両が転落した原因は、防護柵の強度が低かったからですが、転落しなかったら死亡事故へ拡大しなかったとも言い切れないでしょう。
    国交省も認識しているようで、最近ガードレールが追加され橋が随所に見られます。
    http://www.mlit.go.jp/road/ir/ir-council/gardrail-car/3pdf/6.pdf
    http://ishizumi01.blog28.fc2.com/blog-entry-16.html
    http://blog.livedoor.jp/oguriyukio/archives/50052830.html

  5. courante1 より:

    興味ある資料を、ありがとうございます。

    1つ目のリンク先、「橋梁上の車両用防護柵の課題等について」では
    「橋梁・高架の区間については、一般論として、線形が良く歩道等が設置されている場合には、万が一車両が正常な進行方向を誤った時でも、まず歩車道境界の縁石が車両の乗越しを抑制し」とあり、縁石を転落防止策不要の前提としているようにも解釈できます。
    2つ目のリンク先では、歩道と車道との間に段差がなかったのにびっくりしました。
    過失割合という観点からすると、道路側の割合がゼロというのはやはり理解できかねます。

  6. キーン より:

    >過失割合という観点からすると、道路側の割合がゼロというのはやはり理解できかねます。

    国や自治体の予算的にも技術的にも、搭乗者を無傷で自動車を100%止める
    ガードレールを全国の全道路に設置することは不可能ですし、
    車が欄干で止まらなかったからといって、国や自治体に業務上過失致死など
    刑事責任を問うのは、無理があるのではないでしょうか。

    運転者はそのような環境を考慮して走行すべきであり、泥酔・スピード違反
    でなければ発生しない事故に関しては、刑事責任を全て負うべきと思います。

    そして、道路側の責任は、民事の賠償などで問えばよいと思います。

  7. bobbob1978 より:

    福岡の飲酒運転事故に関しては事故そのものよりも事故後の対応が酷かったことに対する懲罰的量刑の面も大きいでしょう。
    一部で以前から言われているように、飲酒運転による事故で捕まるよりも轢き逃げや当て逃げした後に酔いを醒ましてから捕まった方が刑罰が軽くなることがある法律には不備があると思います。
    明治40年に作られた刑法に少しずつ新しい刑を足したり改正したりして来ましたが、全体の整合性が取れなくなって来ています。刑法を抜本的に改正し、量刑のバランス等を現代人の感覚に合わせるべきです。

  8. マイネル所長 より:

    初めて読ませていただきました。
    福岡の事件では周りの声を聞いても「当然だ」と言う声が多いのですが、法の下の平等の観点から言えば、過失致死で20年はやはり重いのではないかな?当然、加害者に対してはは、すぐに救護措置をとらず、逃亡をしようとしたり同情する余地などありませんが。
    被害者の声が司法に届くようになったのはよいことですが、あくまで第三者的に判断するのが裁判だと思っています。
    もっとも、危険運転致死傷罪の基準のあいまいさが1審2審での判断のブレが生じさせているのですから、基準をしっかりしなければいけないのだろうとは思います。

  9. courante1 より:

    bobbob1978 様が指摘された、量刑のバランスなどの法の整合性が取れなくなってきているという点、納得いたしました。

    マイネル所長 様の、第三者的に判断するのが裁判だというお見方、同感です。また1審2審の判断のブレが大きいと裁判の信頼性にも影響すると思います。