池田信夫さんが書いた「デノミのすすめ」で、デノミとともに貨幣を電子マネーだけにして現金を廃止する提案が行われている。(ただし、文章の最後に隠し文字で「冗談」である旨が書かれているので、ご注意。)
ツイッターでもこの記事にコメントさせていただいたのだが、140文字の制限の中で説明するにはややこしすぎるし、「磯崎さんの提案の変形版だ」と書かれているので、誤解が無いように補足をしておきたい。
ツイッターでもこの記事にコメントさせていただいたのだが、140文字の制限の中で説明するにはややこしすぎるし、「磯崎さんの提案の変形版だ」と書かれているので、誤解が無いように補足をしておきたい。
この「全貨幣を電子マネー化したらどうなるか」という思考実験をすることは、「お金」とは何か、「資本主義経済」とは何かを考えるのに非常に有用な教材になると考えられるので、単なる冗談として笑い飛ばしてしまうには惜しい。
確かに、日本ほど「電子マネー」が普及している国はなさそうなので、世界で最も先に貨幣がすべて電子化されるのが日本になっても不思議ではない気がする。
しかし結論的に言えば、10年後に「紙の新聞」が無くなっている可能性はあっても、「紙のお金」が無くなっている可能性は、かなり低いと考えられるのである。
それはなぜか。
■現行の「電子マネー」と「お金」は、まったくの別物
現在、都市部を中心に、SuicaやPASMO、ICOCAといった交通系電子マネーをはじめとして、Edy、nanaco、WAONといった電子マネーが急速に広がりつつある。日常、電車に乗ったり買い物をしたりの大半がすでに「電子マネー」に置き換わり、「最近ではほとんど紙幣やコインを使わなくなったなあ」という人も多いだろう。
しかし、これら現在日本に存在する「電子マネー」は「貨幣」とは全く異なるものだ。法的には、交通系電子マネーは「乗車券」であり、その他の電子マネーは(前払式証票の規制等に関する法律の規制を受けた)「プリペイドカード」である。
また、上記に例をあげた電子マネーはすべてソニーの「FeliCa」というチップの上に実装されているため、例えば「おサイフケータイ」の機能があれば、一つの携帯電話にSuicaやEdyといった異種の電子マネーやポイントをインストールすることができる。
しかし、これらの電子マネーは、それらの規格間で「お金」のやりとりはできないことはもちろん、同じ規格同士でも、商店や銀行以外との電子マネーの受渡ができない。
すなわち、紙幣やコインは、例えば友達同士でも「昨日の飲み代の2千円、払うよ」と、その場で現金を手渡すといった使い方ができるが、上記の「電子マネー」は今のところそういった使い方はできない。
「それは法的な制約によるものであって、技術的には政府(日銀)が電子マネーを行うのは可能じゃないの?」と思われる方も多いのではないかと思う。
しかし、民間ならぬ政府が「電子マネー」を発行し、すべての紙幣やコインを電子マネーに置き換えるというのは、技術だけでない幾多の困難が待ち構えている。
■まだ非常に小さい電子マネー残高
東京近辺では、電車に乗るのもコンビニで買い物をするのも、ほとんど「おサイフケータイ」で済んでしまうし、飲食店やタクシーなども、電子マネーが使えるところが増えて来ている。だから私自身は、全部の貨幣が電子マネー化されたら非常にハッピーだ。
しかし、マクロで見てみると、電子マネーの残高は、「お金」の中ではまだものすごく小さい。野村総研によると年間決済額はまだたったの1.3兆円だ。
みなさんは、手元の電子マネー残高に対して、月にどのくらい電子マネーを使うだろうか?私が一番よく使うSuicaの場合、履歴を見ると、1ヶ月にチャージするのは平均残高の2倍程度なので、年間では残高が24回転していることになる。全国平均ではその半分の12回転だとしても、電子マネーの残高は1.3兆円を12で割ると「たった」1000億円程度しか無いことになる。
これに対して「ホンモノのお金」は、日銀が発行する銀行券は77兆、財務省が発行する硬貨が4.5兆円、合わせて81.4兆円ほどの残高がある。つまり、電子マネーの残高というのは、今のところまだ貨幣に対して0.1%ほどの「超ニッチ」な存在でしか無いのである。
■貨幣の匿名性が確保できないと経済はシュリンクする
前述の「電子マネー」の場合、利用開始時に住所や氏名を登録するので、買い物をすると、誰が何を購入したかはトレースされてしまう可能性がある。
特に、電子マネーが便利なところは、「おサイフケータイ」であれば、銀行のATMや商店にあるチャージ機までわざわざ出かけなくても、いつでもどこでも通信で、お金が下ろせるところだろう。現在、日本の携帯電話は利用開始時に本人確認が非常に厳しく行われるから、携帯電話を通じても、電子マネーの利用がトレースされる可能性がある。
こうした匿名性が完全でない電子マネーを強制してしまうと、経済はどうなるだろうか。
池田さんは、「日本の地下経済は約20兆円」で「金の流れを少しでも透明化すれば、増税や事業仕分けよりはるかに効率的に税収を増やすことができる。」と書いている。
確かに、金にトレーサビリティが付いたら、芸能人が麻薬や覚せい剤で捕まるケースも激減するだろうし、社会は非常に「クリーン」になるように思える。
しかし、仮にすべての金の流れが「透明化」されたら、マイナスの効果も大きいだろう。
資本主義のすごいところは、なんと言っても「ちょっとアヤしい」需要まで取り込めるところなのだ。
ほとんどの人は、表立って聞けば「私は、誰に知られても恥ずかしくないような金の使い方しかしていない。」と言うだろう。しかし、渋谷や新宿をちょっと歩けば、風俗産業、おかまバー、個室ビデオなどの看板がオンパレードである。利用者が少ないのであれば、立地のいい繁華街の真ん中に、そんなものが大量に存在できるわけがないから、マクロで見ればかなりの需要があるはずなのである。
パチンコ店や下着ショップでお金を使ったことも人に知られたくないだろうという人も多いだろう。また、ネットを見ても「背が高くなるブーツ」「毛生え薬」「アイドル水着写真集」「美少女ゲーム」など、利用したことを大っぴらには知られたくないであろうモノやサービスの広告がかなり多い。これも誰も購入しないなら広告が成立するわけがないので、それなりの需要が確実に存在するのである。
そうしたモノやサービスが悪いと言っているわけではなく、その逆である。
そういう支出に、全部、政府や日銀からトレースされるような「お金」を使わないといけないとしたら経済はどうなるか?ということだ。
「誰に知られても恥ずかしくない需要」だけを抽出すると、つまるところは、旧共産主義国の経済で流通しているような財やサービスになってしまうはずだ。
読者のみなさんは、雨をしのげる家と体を包む質素な服と空腹を満たす食事があれば、それ以上のものは不要だと考えるだろうか?
我々日本人は「ちょっぴり恥ずかしい」「世間に知られると贅沢すぎると非難されるかも」といったものまで買える経済の中で生きているから、(それでも需要不足でデフレ気味だとは言え)これだけの経済規模を維持できているのであり、その経済を可能にしているのは、「誰が何に使ったのかがわからない」紙幣やコインなのだ。
■技術的に貨幣の匿名性は確保できないのか?
ツイッターでは、「今でも、WebMoneyやBitCashなど、匿名性を確保できる電子マネーはある。」というコメントもいただいた。しかし、今と同じ方式を80兆円の「お金」全体を電子マネー化するのに使って匿名性も保つことは難しいだろう。
なぜかというと、WebMoneyやBitCashはコンビニなどでそのカードを買う際に払うお札やコインが匿名性があるから匿名性があるのであって、80兆円の貨幣全体がその方式になって、カードを買うためのマネーがその方式だったら、話は変わって来る。
もちろん、細かくカードをわけて、用途別にカードを使い分けるなどすれば匿名性が保たれることになるかも知れないが、そんなカードが何枚もサイフの中に入っているんだったら、「紙幣」と変わりないし、ユーザーから見た「電子」のメリットは大きく損なわれてしまうだろう。
では、電子マネーでは理論的に匿名性は確保できないのか?と言えば、答えは「ノー」だ。
1990年代には、DigiCash、Mondex、Millicentといった電子マネーの方式が次々に提案され、中には、中央のサーバにいちいち問い合わせせずとも、利用者のICカードからICカードに次々に移る「転々流通性」や高い匿名性を持つ方式もすでに提案されていた。
では、そういう方式を導入すれば、経済をシュリンクさせることもなく、全貨幣を電子マネーに置き換えることができるんじゃないか、と思われるかも知れないが、そうは甘くない。
■「官」と「民」は何が違うのか?
郵政民営化の過程でも議論されてきた話であるが、一般に、「なぜ民間でやった方がうまくいくか」「なぜ政府がやるのではだめなのか」ということを理詰めで説明するのは意外に難しい。
なぜなら、仮に民間でうまく行っている方法があるなら、その方法をそのまま政府で取り入れれば、政府でも民間と同じことが同じようにうまくできるはずだからだ。
「役人はビジネスセンスがない」「お役所がやると、どうしてもお役所的な仕事になっちゃう」といった批判も、よく考えるとあまり科学的な話ではない。役人が民間人と生物学的に異なっているわけではないから、民間で導入されているのと同じ教育やインセンティブ付けを行えば、政府の組織の人間であっても同様のパフォーマンスは発揮できるはずだからである。
しかし、「電子マネー」を政府や日銀が導入するのがうまくいかない説明は、比較的易しいように思える。
■「官」ではできないタイプの意思決定が必要
政府や日銀が公的な電子マネーに導入する場合の最大の障壁は、匿名性の確保と偽造の困難性のバランスの判断だろう。
貨幣を使う都度サーバに問い合わせるような方式であれば、どこかで知られずに大量の通貨が偽造されているといったことにはなりにくいので、安心感はある。しかし前述の通り、これは経済自体をシュリンクさせてしまう可能性も高い。
しかし、匿名性が高く、サーバに都度問い合わせをしなくても利用者間を転々と流通するようなタイプの電子マネーは、どこでどんなことをされているかわからないので、意思決定をする国会議員としては恐ろしいはずだ。
しかも、貨幣は偽造のインセンティブが極めて強い。もし強制通用力のある「お金」をバレずに偽造することができたら、文字通り「大金持ち」になれるからだ。
このため、この一国の通貨が電子化されたら、世界中の最高クラスの技術を持つ技術者が、こぞって通貨の偽造にアタックすることは間違いない。
今までの紙のお札であっても、偽造できる可能性はゼロではない。しかし特に日本の紙幣は、高度な印刷技術により偽造の困難性が高いし、大量に偽造するには、大型の印刷機械や特殊な用紙、ホログラムなどを大量に購入する必要があるから、これをバレずに行うのは至難の業になる。
これに対して、転々流通する電子マネーは、単なるデジタルなデータに過ぎない。解読するのに必要なのもコンピュータだし、大量に偽造する場合にも何かの原料を仕入れる必要はない。
お札が偽造しにくいかどうかについては、「ここにホログラムが入ってまして・・」とか「ここに、ものすごく小さな文字が刻まれてまして・・・」といった説明を聞けば、素人でも「なるほど」と思うだろう。
しかし、電子マネーが偽造できないということは、高度な「数学」その他の技術に依拠している。
国が貨幣を電子マネー化するには、国会で法案を決議する必要があり、そのためには国会議員が電子マネーを理解する必要がある。電子マネーを理解するには、高度な数学を理解する必要になる。
例えば、二つ同じデータが作れないということを担保するための技術の一つとして、公開鍵暗号技術による電子署名が使われているが、「nを法とする剰余系上で大きな素数p, qの積がうんぬん」とか「ある数を素因数分解する問題はクラスNPに属する」が「決定性チューリング機械において多項式時間で判定可能な問題のクラスであるクラスPがクラスNPと異なるという『P≠NP予想』があるので、RSA暗号を解読することは困難だ。」といったことを、説明されて、はたして国会議員が理解し、意思決定することは可能なのだろうか?
当然、専門の委員が中心になって検討するだろうし、「それって、結局、数学的に偽造が無理だって証明されてるってことか?」と聞いて、「はい、証明されてます」と専門家が答えてくれれば意思決定はまだ容易かも知れない。
しかし、
「P≠NP予想は『予想』であって、まだ数学的には証明されてるわけではありません」
と言われたら、国会議員は「そんな技術を国の経済の根幹である貨幣の電子化に利用していいのか?」と思うのが当然だろう。
もちろん、実際には、そうした数学的な正面玄関からのアタックよりは、実装上のセキュリティホールから攻撃される可能性の方がはるかに高いはずだ。
しかも「ホンモノのお金」の偽造のインセンティブは「今の電子マネー」とは比べ物にならない。
「今の電子マネー」は、たとえ偽造できたとしても、コンビニでせいぜい数千円のものを買ったり、電車に乗れたりする程度の話である。つまり、そもそも世界最高クラスのハッカー(クラッカー)が、それを偽造してやろうと思うインセンティブはほとんど無い。
また前述の通り、電子マネーの残高は、「貨幣」の800分の1の1000億円の量しか無い。
その程度の話を民間で行う場合、「この技術は大丈夫なのかね?」と社長に聞かれて「ソニーさんが、これこれの説明で大丈夫だと言ってました」と担当者が資料をもとに答えて、数ヶ月いろんな角度から検討した結果、GOサインの決議をしても、経営判断の原則に照らしても不十分な検討だったということには必ずしもならないだろう。
しかし、国が80兆円もの強制通用力のある貨幣を電子マネー化するのは、その何千倍も慎重にならなければならない話だ。そして、その判断の根拠が、高度な数学や技術の理解、ということになれば、これは極めて判断しにくい話である。
現在の電子マネーですら、仮に「セキュリティホールが見つかったので、当面の間、使用停止にします」なんてことになったら、社会が混乱するのは間違いない。ましてや全貨幣が利用停止なんてことになったら、経済は完全にストップしてしまう。
攻撃をしかけてくるのは、個人のクラッカーや犯罪者だけではない。
他国の軍や研究所の最高のチームがふんだんに金をかけて解読にアタックする「国防上の」リスクも考えないといけないだろう。
また、現在の「おサイフケータイ」は、ソニーのFeliCaというチップが「デファクトスタンダード」になったからうまく行っている話だが、国が乗り出す場合、国がやろうとしていることの0.1%ぽっちのものに合わせる必要はないし、法律で強制できるのだから、「FeliCaがデファクトスタンダードなのでFeliCaを採用しよう」ということになるとは限らない。
むしろ、「ソニーなど特定の企業だけが儲かるのはけしからん」ということになって、「政府独自規格で最高にセキュリティが高い規格を作ろう」と、いわゆる「ITゼネコン」が集まって共同で研究開発することになるのではないか。そんなことをしてる間に、あっという間に10年が過ぎるだろう。
ちなみに、もとの「冗談」の記事で池田さんが、貨幣をすべて電子化すれば課税でマイナス金利を達成することも可能だ、と書いていたが、紙幣等の80兆円は、預金も含めた1000兆円超の「マネー」の中では10%未満のマイナーなものにすぎない。
仮に「マネー」に課税して「マイナス金利」が実現するにしても、預金の方が10倍以上量が多く、コストは10分の1以下のコストで課税できるだろう。
だから、以前も書いた通り、「現金」にまで課税するなんてことを考える必要は乏しいのだ。
以上のように、政府が貨幣をすべて電子マネー化するなんてことは意思決定のプロセスとして極めて困難だし、それをやらない方が貨幣の使い勝手もよく、経済の活性化も保たれるので、今から10年以内に貨幣がすべて電子化されるなんて世界は、おそらくやってこないだろうと考えられるのである。
ご参考資料:
週刊isologue(第32号)通貨供給でデフレが救えるのか?(「会計経済学」的アプローチ) http://www.tez.com/blog/archives/001484.html
確かに、日本ほど「電子マネー」が普及している国はなさそうなので、世界で最も先に貨幣がすべて電子化されるのが日本になっても不思議ではない気がする。
しかし結論的に言えば、10年後に「紙の新聞」が無くなっている可能性はあっても、「紙のお金」が無くなっている可能性は、かなり低いと考えられるのである。
それはなぜか。
■現行の「電子マネー」と「お金」は、まったくの別物
現在、都市部を中心に、SuicaやPASMO、ICOCAといった交通系電子マネーをはじめとして、Edy、nanaco、WAONといった電子マネーが急速に広がりつつある。日常、電車に乗ったり買い物をしたりの大半がすでに「電子マネー」に置き換わり、「最近ではほとんど紙幣やコインを使わなくなったなあ」という人も多いだろう。
しかし、これら現在日本に存在する「電子マネー」は「貨幣」とは全く異なるものだ。法的には、交通系電子マネーは「乗車券」であり、その他の電子マネーは(前払式証票の規制等に関する法律の規制を受けた)「プリペイドカード」である。
また、上記に例をあげた電子マネーはすべてソニーの「FeliCa」というチップの上に実装されているため、例えば「おサイフケータイ」の機能があれば、一つの携帯電話にSuicaやEdyといった異種の電子マネーやポイントをインストールすることができる。
しかし、これらの電子マネーは、それらの規格間で「お金」のやりとりはできないことはもちろん、同じ規格同士でも、商店や銀行以外との電子マネーの受渡ができない。
すなわち、紙幣やコインは、例えば友達同士でも「昨日の飲み代の2千円、払うよ」と、その場で現金を手渡すといった使い方ができるが、上記の「電子マネー」は今のところそういった使い方はできない。
「それは法的な制約によるものであって、技術的には政府(日銀)が電子マネーを行うのは可能じゃないの?」と思われる方も多いのではないかと思う。
しかし、民間ならぬ政府が「電子マネー」を発行し、すべての紙幣やコインを電子マネーに置き換えるというのは、技術だけでない幾多の困難が待ち構えている。
■まだ非常に小さい電子マネー残高
東京近辺では、電車に乗るのもコンビニで買い物をするのも、ほとんど「おサイフケータイ」で済んでしまうし、飲食店やタクシーなども、電子マネーが使えるところが増えて来ている。だから私自身は、全部の貨幣が電子マネー化されたら非常にハッピーだ。
しかし、マクロで見てみると、電子マネーの残高は、「お金」の中ではまだものすごく小さい。野村総研によると年間決済額はまだたったの1.3兆円だ。
みなさんは、手元の電子マネー残高に対して、月にどのくらい電子マネーを使うだろうか?私が一番よく使うSuicaの場合、履歴を見ると、1ヶ月にチャージするのは平均残高の2倍程度なので、年間では残高が24回転していることになる。全国平均ではその半分の12回転だとしても、電子マネーの残高は1.3兆円を12で割ると「たった」1000億円程度しか無いことになる。
これに対して「ホンモノのお金」は、日銀が発行する銀行券は77兆、財務省が発行する硬貨が4.5兆円、合わせて81.4兆円ほどの残高がある。つまり、電子マネーの残高というのは、今のところまだ貨幣に対して0.1%ほどの「超ニッチ」な存在でしか無いのである。
■貨幣の匿名性が確保できないと経済はシュリンクする
前述の「電子マネー」の場合、利用開始時に住所や氏名を登録するので、買い物をすると、誰が何を購入したかはトレースされてしまう可能性がある。
特に、電子マネーが便利なところは、「おサイフケータイ」であれば、銀行のATMや商店にあるチャージ機までわざわざ出かけなくても、いつでもどこでも通信で、お金が下ろせるところだろう。現在、日本の携帯電話は利用開始時に本人確認が非常に厳しく行われるから、携帯電話を通じても、電子マネーの利用がトレースされる可能性がある。
こうした匿名性が完全でない電子マネーを強制してしまうと、経済はどうなるだろうか。
池田さんは、「日本の地下経済は約20兆円」で「金の流れを少しでも透明化すれば、増税や事業仕分けよりはるかに効率的に税収を増やすことができる。」と書いている。
確かに、金にトレーサビリティが付いたら、芸能人が麻薬や覚せい剤で捕まるケースも激減するだろうし、社会は非常に「クリーン」になるように思える。
しかし、仮にすべての金の流れが「透明化」されたら、マイナスの効果も大きいだろう。
資本主義のすごいところは、なんと言っても「ちょっとアヤしい」需要まで取り込めるところなのだ。
ほとんどの人は、表立って聞けば「私は、誰に知られても恥ずかしくないような金の使い方しかしていない。」と言うだろう。しかし、渋谷や新宿をちょっと歩けば、風俗産業、おかまバー、個室ビデオなどの看板がオンパレードである。利用者が少ないのであれば、立地のいい繁華街の真ん中に、そんなものが大量に存在できるわけがないから、マクロで見ればかなりの需要があるはずなのである。
パチンコ店や下着ショップでお金を使ったことも人に知られたくないだろうという人も多いだろう。また、ネットを見ても「背が高くなるブーツ」「毛生え薬」「アイドル水着写真集」「美少女ゲーム」など、利用したことを大っぴらには知られたくないであろうモノやサービスの広告がかなり多い。これも誰も購入しないなら広告が成立するわけがないので、それなりの需要が確実に存在するのである。
そうしたモノやサービスが悪いと言っているわけではなく、その逆である。
そういう支出に、全部、政府や日銀からトレースされるような「お金」を使わないといけないとしたら経済はどうなるか?ということだ。
「誰に知られても恥ずかしくない需要」だけを抽出すると、つまるところは、旧共産主義国の経済で流通しているような財やサービスになってしまうはずだ。
読者のみなさんは、雨をしのげる家と体を包む質素な服と空腹を満たす食事があれば、それ以上のものは不要だと考えるだろうか?
我々日本人は「ちょっぴり恥ずかしい」「世間に知られると贅沢すぎると非難されるかも」といったものまで買える経済の中で生きているから、(それでも需要不足でデフレ気味だとは言え)これだけの経済規模を維持できているのであり、その経済を可能にしているのは、「誰が何に使ったのかがわからない」紙幣やコインなのだ。
■技術的に貨幣の匿名性は確保できないのか?
ツイッターでは、「今でも、WebMoneyやBitCashなど、匿名性を確保できる電子マネーはある。」というコメントもいただいた。しかし、今と同じ方式を80兆円の「お金」全体を電子マネー化するのに使って匿名性も保つことは難しいだろう。
なぜかというと、WebMoneyやBitCashはコンビニなどでそのカードを買う際に払うお札やコインが匿名性があるから匿名性があるのであって、80兆円の貨幣全体がその方式になって、カードを買うためのマネーがその方式だったら、話は変わって来る。
もちろん、細かくカードをわけて、用途別にカードを使い分けるなどすれば匿名性が保たれることになるかも知れないが、そんなカードが何枚もサイフの中に入っているんだったら、「紙幣」と変わりないし、ユーザーから見た「電子」のメリットは大きく損なわれてしまうだろう。
では、電子マネーでは理論的に匿名性は確保できないのか?と言えば、答えは「ノー」だ。
1990年代には、DigiCash、Mondex、Millicentといった電子マネーの方式が次々に提案され、中には、中央のサーバにいちいち問い合わせせずとも、利用者のICカードからICカードに次々に移る「転々流通性」や高い匿名性を持つ方式もすでに提案されていた。
では、そういう方式を導入すれば、経済をシュリンクさせることもなく、全貨幣を電子マネーに置き換えることができるんじゃないか、と思われるかも知れないが、そうは甘くない。
■「官」と「民」は何が違うのか?
郵政民営化の過程でも議論されてきた話であるが、一般に、「なぜ民間でやった方がうまくいくか」「なぜ政府がやるのではだめなのか」ということを理詰めで説明するのは意外に難しい。
なぜなら、仮に民間でうまく行っている方法があるなら、その方法をそのまま政府で取り入れれば、政府でも民間と同じことが同じようにうまくできるはずだからだ。
「役人はビジネスセンスがない」「お役所がやると、どうしてもお役所的な仕事になっちゃう」といった批判も、よく考えるとあまり科学的な話ではない。役人が民間人と生物学的に異なっているわけではないから、民間で導入されているのと同じ教育やインセンティブ付けを行えば、政府の組織の人間であっても同様のパフォーマンスは発揮できるはずだからである。
しかし、「電子マネー」を政府や日銀が導入するのがうまくいかない説明は、比較的易しいように思える。
■「官」ではできないタイプの意思決定が必要
政府や日銀が公的な電子マネーに導入する場合の最大の障壁は、匿名性の確保と偽造の困難性のバランスの判断だろう。
貨幣を使う都度サーバに問い合わせるような方式であれば、どこかで知られずに大量の通貨が偽造されているといったことにはなりにくいので、安心感はある。しかし前述の通り、これは経済自体をシュリンクさせてしまう可能性も高い。
しかし、匿名性が高く、サーバに都度問い合わせをしなくても利用者間を転々と流通するようなタイプの電子マネーは、どこでどんなことをされているかわからないので、意思決定をする国会議員としては恐ろしいはずだ。
しかも、貨幣は偽造のインセンティブが極めて強い。もし強制通用力のある「お金」をバレずに偽造することができたら、文字通り「大金持ち」になれるからだ。
このため、この一国の通貨が電子化されたら、世界中の最高クラスの技術を持つ技術者が、こぞって通貨の偽造にアタックすることは間違いない。
今までの紙のお札であっても、偽造できる可能性はゼロではない。しかし特に日本の紙幣は、高度な印刷技術により偽造の困難性が高いし、大量に偽造するには、大型の印刷機械や特殊な用紙、ホログラムなどを大量に購入する必要があるから、これをバレずに行うのは至難の業になる。
これに対して、転々流通する電子マネーは、単なるデジタルなデータに過ぎない。解読するのに必要なのもコンピュータだし、大量に偽造する場合にも何かの原料を仕入れる必要はない。
お札が偽造しにくいかどうかについては、「ここにホログラムが入ってまして・・」とか「ここに、ものすごく小さな文字が刻まれてまして・・・」といった説明を聞けば、素人でも「なるほど」と思うだろう。
しかし、電子マネーが偽造できないということは、高度な「数学」その他の技術に依拠している。
国が貨幣を電子マネー化するには、国会で法案を決議する必要があり、そのためには国会議員が電子マネーを理解する必要がある。電子マネーを理解するには、高度な数学を理解する必要になる。
例えば、二つ同じデータが作れないということを担保するための技術の一つとして、公開鍵暗号技術による電子署名が使われているが、「nを法とする剰余系上で大きな素数p, qの積がうんぬん」とか「ある数を素因数分解する問題はクラスNPに属する」が「決定性チューリング機械において多項式時間で判定可能な問題のクラスであるクラスPがクラスNPと異なるという『P≠NP予想』があるので、RSA暗号を解読することは困難だ。」といったことを、説明されて、はたして国会議員が理解し、意思決定することは可能なのだろうか?
当然、専門の委員が中心になって検討するだろうし、「それって、結局、数学的に偽造が無理だって証明されてるってことか?」と聞いて、「はい、証明されてます」と専門家が答えてくれれば意思決定はまだ容易かも知れない。
しかし、
「P≠NP予想は『予想』であって、まだ数学的には証明されてるわけではありません」
と言われたら、国会議員は「そんな技術を国の経済の根幹である貨幣の電子化に利用していいのか?」と思うのが当然だろう。
もちろん、実際には、そうした数学的な正面玄関からのアタックよりは、実装上のセキュリティホールから攻撃される可能性の方がはるかに高いはずだ。
しかも「ホンモノのお金」の偽造のインセンティブは「今の電子マネー」とは比べ物にならない。
「今の電子マネー」は、たとえ偽造できたとしても、コンビニでせいぜい数千円のものを買ったり、電車に乗れたりする程度の話である。つまり、そもそも世界最高クラスのハッカー(クラッカー)が、それを偽造してやろうと思うインセンティブはほとんど無い。
また前述の通り、電子マネーの残高は、「貨幣」の800分の1の1000億円の量しか無い。
その程度の話を民間で行う場合、「この技術は大丈夫なのかね?」と社長に聞かれて「ソニーさんが、これこれの説明で大丈夫だと言ってました」と担当者が資料をもとに答えて、数ヶ月いろんな角度から検討した結果、GOサインの決議をしても、経営判断の原則に照らしても不十分な検討だったということには必ずしもならないだろう。
しかし、国が80兆円もの強制通用力のある貨幣を電子マネー化するのは、その何千倍も慎重にならなければならない話だ。そして、その判断の根拠が、高度な数学や技術の理解、ということになれば、これは極めて判断しにくい話である。
現在の電子マネーですら、仮に「セキュリティホールが見つかったので、当面の間、使用停止にします」なんてことになったら、社会が混乱するのは間違いない。ましてや全貨幣が利用停止なんてことになったら、経済は完全にストップしてしまう。
攻撃をしかけてくるのは、個人のクラッカーや犯罪者だけではない。
他国の軍や研究所の最高のチームがふんだんに金をかけて解読にアタックする「国防上の」リスクも考えないといけないだろう。
また、現在の「おサイフケータイ」は、ソニーのFeliCaというチップが「デファクトスタンダード」になったからうまく行っている話だが、国が乗り出す場合、国がやろうとしていることの0.1%ぽっちのものに合わせる必要はないし、法律で強制できるのだから、「FeliCaがデファクトスタンダードなのでFeliCaを採用しよう」ということになるとは限らない。
むしろ、「ソニーなど特定の企業だけが儲かるのはけしからん」ということになって、「政府独自規格で最高にセキュリティが高い規格を作ろう」と、いわゆる「ITゼネコン」が集まって共同で研究開発することになるのではないか。そんなことをしてる間に、あっという間に10年が過ぎるだろう。
ちなみに、もとの「冗談」の記事で池田さんが、貨幣をすべて電子化すれば課税でマイナス金利を達成することも可能だ、と書いていたが、紙幣等の80兆円は、預金も含めた1000兆円超の「マネー」の中では10%未満のマイナーなものにすぎない。
仮に「マネー」に課税して「マイナス金利」が実現するにしても、預金の方が10倍以上量が多く、コストは10分の1以下のコストで課税できるだろう。
だから、以前も書いた通り、「現金」にまで課税するなんてことを考える必要は乏しいのだ。
以上のように、政府が貨幣をすべて電子マネー化するなんてことは意思決定のプロセスとして極めて困難だし、それをやらない方が貨幣の使い勝手もよく、経済の活性化も保たれるので、今から10年以内に貨幣がすべて電子化されるなんて世界は、おそらくやってこないだろうと考えられるのである。
ご参考資料:
週刊isologue(第32号)通貨供給でデフレが救えるのか?(「会計経済学」的アプローチ) http://www.tez.com/blog/archives/001484.html





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