安楽死に殺人罪を適用すべきか - 岡田克敏

2009年12月22日 09:47

 川崎協同病院で98年、気管支喘息の発作で意識不明状態だった患者の気管内チューブを抜き、筋弛緩剤を投与して死なせたとして、殺人罪に問われた医師の上告審で、最高裁は被告側の上告を棄却、殺人罪の成立を認め、医師の有罪が確定しました。

 この種の事件があるたびに「殺人罪」という罪名に対して違和感を覚えます。死期を控えた患者の苦しみを見かねた遺族が医師に懇願したケースが、利己的な動機のための殺人と同じ殺人罪で処断されるということに対する違和感です。両者はかなり異質なものに思えます。


 また、生命は今後数十年間生きられる命もあれば、あと数時間、数分の場合があります。残り数分の命を縮めても殺人となります。

 つまり両者の動機には質的な差があるうえ、絶たれた生命の状態にも大差があります。これを殺人罪という同一の法律で扱うのはやはり乱暴だと思います。

 殺人という行為の法的な定義を適用し、論理を積み重ねるとこのようになるのでしょうが、少し単純すぎはしないでしょうか。法の論理を厳格に貫徹することが最終目的ではありません。社会に役立つことが法の最終目的です。

 遺族が当人の苦しみを見かねて、医師に死を早めて欲しいと依頼することは珍しいことではありません。医師が依頼を承知する場合もあるでしょうけど、被害者がいるわけでなく、たいていは問題にならないと思います。昔はよくあったこと、という話を聞きます。

 今回、なぜ問題が表面化したのか知りませんが、たまたま医師が殺人罪に問われたとき、遺族は「依頼」の事実が判明すると自身も殺人罪に問われるので、「依頼」の事実を否定することになるといわれています。したがって医師だけが罰せられるという理不尽なことになる可能性があります。

 今回の川崎協同病院の事件でも遺族は依頼の事実を途中で否定したと聞きます。二審では依頼の事実は否定できないと消極的に認定されたようですが、もし一審のように否定されたままであれば、医師はさらに気の毒なことになっていたでしょう。

 医師が依頼もなく、患者を死に至らしめるということはたいへん考えにくいことです。そして依頼があったと推定される場合、依頼した遺族が罪に問われないことは論理的な整合性を欠くものです。この種の事件に問われる医師は、たいてい同情心が強く患者の信頼も厚いことが多いだけに、いっそう違和感が残ります。

 むろん、依頼者を罪に問うべきだと言うつもりはありません。このようなケースに殺人罪を適用することの是非を問いたいわけです。この判決によって、医師は末期患者の死に関してより慎重な姿勢になることと思われます。

 回復の見込みのない患者に対して、意味があるとは思えない延命処置、蘇生処置がしばしば行われることはよく知られています。生命を助けるという医療の使命ゆえのことですが、遺族の訴訟などに備えるためでもあると言われています。

 私自身、苦しくて回復が見込めない状態になれば、早く命を絶ってほしいと思っていますが、これは多くの人が望んでいることだと思います。医師が法的なリスクを避けるため延命処置、蘇生処置に懸命な努力をする間、悶え苦しむのは遠慮したいものです。それならば、むしろ世界の主流となっている薬殺による死刑の方が楽かもしれません。

 それはともかく、強盗殺人も安楽死も同じ殺人罪という現状は何とかならないものかと思う次第です。
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