「一者応札」は「不正」なのか?〜 公共契約の悩ましい問題

公共契約における悩ましい問題の一つに「一者応札(一者応募)」がある。これは公共契約の締結の過程で競争入札(募集)を行なった際に、応札者(応募者)が一者しかいないケースを指す(「者」と書くのは個人事業者の場合もあるからだ。一般的に業者は会社なので「社」と書く場合も多い)。応募者は複数いたが札入れの時点で辞退が相次ぎ、結果一者になる場合もあれば、応募の時点ですでに一者の場合もある。

また、競争性のある随意契約(企画競争等)での一者応募のケースもある。厳密には、場合分けをしつつ考察する必要があるが、ここでは主として一般競争入札を実施したのにそもそも応募者が一者しかいない状況を念頭におこう。最近では、海上保安庁発注の燃料購入契約で一者応札が相次いでいるケースがNHKに報じられている。

「偶然か?不正か?」(NHK生活情報ブログ 2019年3月15日)

ライムル/写真AC(編集部)

「一般競争入札は多くの応札者が期待できるのであるから、一者しか申し込まないような事態は不正以外の何物でもない、談合が強く疑われる」

これが世間一般の感覚かもしれない。一者応札のケースでは往々にして落札率(落札価格/予定価格の百分率)が高く出るのでますますそう思われるのだろう。大抵の場合、不正が原因なのではなく、他の業者にとって競争入札に参加しても勝てる見込みがないと思われていることが一者応札の発生原因となっている。

同一業者と何年にも渡って契約を繰り返している業務委託契約をその翌年においても発注する場合、あるいはある現場の土木工事の完成後に追加の工事を発注する場合、一般競争入札を実施しても既存の業者だけが応募し、当該一者のみの応札となる可能性が高い。それは過去に同種の案件を受注している業者、過去に関連性の強い工事を受注している業者が、その知識・ノウハウや経験の面においても、価格低減の余地の面においても、他の業者よりも有利な立場にあるのが一般だからである。

他の業者からしてみれば、最初から有利である既存の業者に対抗するために時間や労力をかけて積算し、(場合によっては)提案書を作成するのは無駄に映る。採算が合わなくともダンピングで対抗すれば受注できるかもしれないが、その合理性を見出せない業者に参入のインセンティブは存在しない。それ自体、ある意味で競争の結果なのである。だから表面的に何者応募した、応札したということに拘ることはナンセンスにも思える。つまり競争は存在するが、競争の結果が事前に判明しているケースなのである。

問題は、競争の条件を不当に厳しくして一者になったのか、そうでないのに一者になったのかである。「一者=不正」と決め付けるのは暴論に近い。

一者応札が予想される場合、当該業者はできる限り高い金額で応札しようとするだろう。予定価格が非公表であっても予想したそれに合わせてくるはずである。一般的には前年度ベースなので同種の契約ならばほぼ予想通りとなる。不安であれば高めに金額を入れ、その後繰り返される入札で、どこかで金額が折り合うことになる。一者応札で入札を繰り返すということは多い。

このようなケースには随意契約が妥当すると考える人も多かろう。一昔前ならばそうする発注機関が多かっただろうが、今は違う。複数の応募者が存在する「かもしれない」以上、随意契約理由が立たないと考えられているからだ。つまり、随意契約が正当化できるのは、受注可能業者(あるいは適切な業者)が一者しかいないことが「明らか」な場合にのみに限定されると考えられているのである。

個人的な見解として随意契約はもう少し柔軟に利用可能だと考えているが、一般にはそうではない。いわゆる「ゼネコン汚職」以降の四半世紀の間、公共契約は不正の温床として批判され続け、中でも随意契約と指名競争入札が標的となってきたことで、国も地方公共団体も「一般競争入札さえ実施していればよい」というマインドになり、一般競争入札を批判回避のための「シェルター」として利用している感がある。

しかし、今度は一者応札・一者応募批判が襲ってきた。「一者」というのは「競争性の欠如」を意味するのではないか。相応の参入者数が期待できるからこそ一般競争入札を実施しているのではないか。一者しか応募、応札しないというのは、発注の仕組みに問題があるのではないか。その背景には官民間の癒着があるのではないか。そういった批判である。

2008年12月、政府の行政支出総点検会議が「各府省は、一者応札・応募となった契約を精査した上で、応札者を増やし実質的な競争性を確保するための改善方策を検討し、公表すべき」と指摘して以降、各発注機関はこの「解消すべき問題」に悩み続けている。

「一者」はそれ自体「不正」か。そうではあるまい。不正によって一者になるのが不正なのであって、その逆ではないはずだ。しかし随意契約批判を回避することを自己目的化し、一者応札が予想されるケースにまで競争性を確保したような体裁を繕おうとした結果、再び批判に晒されることとなった。いまさら、過去のような随意契約を選択する訳にもいかない。特定の業者との癒着を批判されて随意契約を放棄したのであるから、特定の業者のみの応札、応募が続けばそれもまた癒着と批判される。

このような批判に過剰反応した東京都の小池百合子知事は「一者の場合の入札手続の中止」という大胆な改革を実施したが、契約手続の遅れなど現場の混乱を招いただけで、期待された大幅な価格低下等のデータも得られないまま一年後に撤回した(その分析として、郷原信郎氏『小池氏による一者入札禁止「制度改革」の“愚”』が詳しい)。

発注情報を周知徹底するとか、公告期間を伸ばすとか、そういう対応には自ずと限界がある。連続して同じ業者が受注しているような場合、公募をかけ応札に興味を有する業者が現れれば一般競争入札を実施し、そうではない場合に当該既存業者と随意契約を結ぶ「公募型随意契約」という選択肢もあるが、問題を根本的に解決するものではない(手続がよりスムースになるという利点はある)。

結局、この問題は透明性の問題に行き着くことになる。競争という手続の利点は、もちろん(価格低下等の)効率性にあるが、もう一つ行政にとっての利点として「競争手続それ自体が説明責任を果たしている」ことを挙げることができる。すなわち会計法や地方自治法の下、公共契約において求められる経済性の実現の要請に対して、競争手続こそが効果的な手法として考えられており、それが採用されている限り、その結果がどうであれ発注機関としては義務を果たしていると理解されることになる、というものである。

しかし、一者が続くようなケースでは、その説明責任が危うくなる。場合によっては構造的な問題がその背景にあり、発注機関としては如何ともし難い状況なのかもしれないが、場合によっては不正・癒着の構造が背景なのかもしれない。残された手段は、説明責任を果たしていくことしかない。

一者が続くことの事情を十分な情報公開を行った上で説明し、納税者に理解を求めるしかない。一者応札が続く案件を批判されて、「法令に基づいて適切に対処しております」しかし「情報は公開できません」では誰も説得できない。

楠 茂樹 上智大学法学部国際関係法学科教授
慶應義塾大学商学部卒業。京都大学博士(法学)。京都大学法学部助手、京都産業大学法学部専任講師等を経て、現在、上智大学法学部教授。独占禁止法の措置体系、政府調達制度、経済法の哲学的基礎などを研究。国土交通大学校講師、東京都入札監視委員会委員長、総務省参与、京都府参与、総務省行政事業レビュー外部有識者なども歴任。主著に『公共調達と競争政策の法的構造』(上智大学出版、2017年)、『昭和思想史としての小泉信三』(ミネルヴァ書房、2017年)がある