6日はドナルド・レーガン元大統領の生誕110年だったが、同じ日、このユーモアに富む国民に広く愛された大統領に、国務長官として7年間仕えたジョージ・シュルツ元国務長官が100歳という長い天寿を全うした。
Secretary George Shultz was one of the most consequential statesmen in American history whose influence on the field of diplomacy has few parallels. Our Embassy sends our deepest condolences to his family and friends. pic.twitter.com/8DwucTeJSw
— ジョセフ・M・ヤング 駐日米国臨時代理大使 (@USAmbJapan) February 8, 2021
折しも米国は、レーガンを敬愛しているとされ、また共産中国を、その不公正な交易慣行、国際法を無視した膨張政策や周縁地域での人権蹂躙への制裁などで追い詰めつつあったトランプの政権から、中国に関してとかくの噂があるバイデン新大統領への政権移行が緒に就いたタイミングだ。
シュルツについて、8日のAPは「80年代のほとんどをソビエト連邦との冷戦関係の改善に費やし、中東の平和のための道を築いた、米国の学界、ビジネス、外交の巨人である元国務長官」と形容している。
米ソ冷戦の改善では、シュルツは87年にINF(中距離核戦力全廃)条約を成立させた。が、ロシアが条約破りしているとして、トランプが19年2月に破棄を通告した記憶は未だ鮮明だ。プーチンのあっさりした同調は、中国の抜け駆け懸念を米ソが共有していたことを感じさせる。
この交渉当時、ゴルバチョフはレーガンの「スターウォーズ構想」に激しく反対した。今にして思えば、中距離核兵器の縮小という史上初の条約が成ったのも、後のソ連崩壊の一因が米国との軍拡競争による経済疲弊にあったとされることの一つの証左ではあるまいか。
中東和平へのシュルツの取り組みは、83年10月にベイルートの兵舎爆撃で海兵隊241人が死亡したことが契機という。レバノン内戦を終わらせるべく彼は何度も中東各国を行き来し、イスラエル軍の撤退に尽力したが、結局は不成功に終わった。この中東和平でもトランプは治績を残した。
シュルツとレーガンにも意見対立があった事例として、APは「イラン・コントラ事件」を挙げる。レーガンはシュルツの反対を押し切り、イランへの武器売却を進めた。親イランのヒズボラ(レバノンの過激派組織)の米人人質解放に、イランの影響力を使おうとの目論みだ。
が、この代金がイランからニカラグアの反政府右派ゲリラ「コントラ」に流れていたと判明、テロ支援国家イランや「コントラ」に与していたと、政権が揺らぐ大事件になった。この時トカゲの尻尾切りされたノース中佐は18年から暫く、先ごろ破産したと話題の全米ライフル協会の会長職にあった。
シュルツが晩年の30年を過ごしたフーバー研究所のサイトには、「シュルツはレーガン政権で2つの重要な役職、大統領の経済政策諮問委員会の議長(1981–82)と国務長官(1982–89)を歴任した」とある。以降、紙幅の許す範囲でレーガンとシュルツの関わった台湾への武器売却について述べたい。
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二人の台湾絡みの対中政策は草思社の「中国は本当に一つなのか」(ジョン・タシクJr.)と「チャイナハンズ」(ジェームズ・リリー)に詳しい。タシクは71年の在台米大使館を振り出しに東南アジア8ヵ国で勤務した外交官で、同書を執筆した05年は保守系のヘリテージ財団アジア研究センター研究員。
リリーは51年にCIA入り、北京のCIA支局開設など9度の海外勤務を経て79年に退職、NSCに籍を移した。レーガンはそのリリーを、断交で廃止された大使館に代えて82年に設けた米国在台湾協会(AIT)の台北所長に抜擢した。06年の同書執筆時は保守系シンクタンクAEIの上級研究員だった。
80年に大統領に就任したレーガンは予備選で台湾を「中華民国」と呼んだ。これは国交樹立以降に米政権が避けていた表現。後の北京による台湾正名運動(民進党が推進し李登輝も支持)の批判を思うと奇異だが、どちらも北京は気に入るまい。何れにせよレーガンの台湾贔屓ぶりを物語る。
が、政権の国務長官アレグザンダー・ヘイグはすぐ「中国派」と知れた。ソ連への対抗上、中国に「戦略的重要性」を持たせたのだ。彼は台湾と中国への最新兵器同時売却を考えた。CIAやNSCを嫌い、リリーが同行した81年6月の北京訪問では通常使用するNSCの連絡チャネルを遮断した。
ヘイグは会見で、米国が北京への最新兵器売却を検討していると独断で暴露した。北京は台湾への武器売却停止の期限設定も、ヘイグとハメル大使に米中の外交関係格下げをちらつかせて迫った。リリーは特別回線を使い、これらをワシントンの安全保障担当補佐官と国防長官に至急電報で知らせた。
リーは「レーガン政権の初期、国務省、CIA、国防総省の内部の(ヘイグのような)『戦略協力一辺倒派』に米中政策が乗っ取られることを懸念した」と書く。バイデン新政権は「対中強硬姿勢」を強調しつつ「利害が一致する部分では協力」するという。共産中国がこの隙や甘さを見逃すとは思えない。
バイデンの大統領特使(気候変動対策)に就任したジョン・ケリー元国務長官と非公式で電話会談をしたことを小泉環境相は、先月26日の会見で得意げに語った。このケリーの04年の大統領選予備選演説での「一つの中国」発言をタシクは次のように書いている。以下は要旨。
「米国はこれまで中国の体制が酷いと承知の上で、党派を超えて『一つの中国』政策を維持して来たが、今こそ台湾に対して強い姿勢で臨まねばならない。米国は台湾社会を承認してはいるが、独立は容認しないと明らかにすべきだ。私は『一国二制度』が台湾問題を解決する方法だと考えている。」
さて、「八・一七コミュニケ」を間近に控えた82年6月、米中外交を格下げするとの中国の脅しに圧されたヘイグは、台湾への武器売却停止期限を中国に明示すべき、とのメモを大統領に上げた。だがレーガンはこれを拒否、7月15日にヘイグを解任し、シュルツを後任に据えた。
「コミュニケ」には「台湾への武器売却を段階的に減少させ、一定期間を経たのちに最終的解決を図る」とある。が、不安を覚えたレーガンは外交用語の誤解を避けるための書簡を添えた。さらにシュルツ新国務長官とワインバーガー国防長官の署名入りの極秘大統領令を出した。
この大統領令はタシク本にもリリー本にも載っている。以下はリリー本の引用。
周知のとおり、私は台湾への武器売却の継続に関する米国の政策を表明した中国との共同コミュニケの発表に同意した。明らかにコミュニケの署名に至る交渉は、武器売却の低減が、台湾海峡の平和と台湾問題の平和的解決を目指す中国の「基本政策」の継続にかかっているとの理解に基づいている。
つまり、米国が台湾への武器売却を低減させる意思は、中国が中台問題の平和的解決を目指す約束を引き続き遵守することを絶対的な前提としている。両者のリンケージが米国外交の永遠の義務であることを明確に理解せねばならない。
加えて、台湾に提供する武器の質と量は、中国からの脅威に応じて決めることが肝要である。台湾の防衛能力と中国の軍事力との相対的均衡は、質量ともに維持されねばならない。
紙幅が尽きた。ここまで縷説したことの一方で、筆者には19年4月の拙稿で書いた「米中台は現状が心地良い」のかとの疑念もある。ご興味のある向きはぜひご一読願えれば幸甚だ。
なおシュルツは「コミュニケ」と併せて、台湾の要望を受けてレーガンが承認した「六つの保証」をリリーAIT所長経由で台湾に通知したが、それについても別稿を参照願いたい。