やはりこうなったか、と失笑を禁じえない。安倍元首相暗殺以後に始まった統一教会絡みの報道に関する私感だ。常日頃この国のマスメディアの偏りと水準の低さは承知していたが、まさかここまで絶望的に酷いとは。呆れるのを通りこしてもう笑うほかなさそうだ。
7月末の記事「安倍元首相暗殺と無縁ではない「アベガー」たちの狂気」にこう書いた。
安倍氏暗殺犯の動機が反社会的カルトへの敵意と判明した時点で、アベガーたちの攻撃性がどの方向に発動するのかは、自明のことだった。被害者とはいえ、悪質カルトと関係のあった安倍氏にも非がある、と印象を操作する。(中略)安倍氏を非難するために利用できるからこそ彼らは、このカルトを執念深く取りあげ、批判しつづけるはずだ。もしや犯人の目的はそれだったのではないか? とつい考えてしまう。
案の定結果はテロリストの目論見通り。いや、それ以上の成果をあげた、といっても過言ではないだろう。
次に起こるかもしれないテロの抑止に最大限注力しなければならない立場のマスメディアが、こともあろうに安倍氏暗殺の正当性を認めるかのような印象づけをしてどうするのか。
とりわけアベガー系メディアの底の浅さは、目が眩むばかりだ。なんと安倍氏を含めた政治家たちが統一教会と接点を持っていたこと自体を問題視しているのだ。それも、いつも通りの図式的「反権力ごっこ」のポジションを手放したくないから、取りあげるのは与党サイドの自民党議員のみ。反権力——ゆえに、良識(本当ですか?)、ということに彼らの中ではなるらしい。
当然同じように教会と接点があった野党議員については、触れる程度に留め、権力批判を展開中のメディア自身が過去に統一教会関連団体に対して好意的な報道をしていた事実についても、WEB上の当該記事を削除しただけで、説明なしに終わりにしてしまう。やりたい放題。誠実この上ない態度だ、と心底思う。
勘違いしてほしくないので、いちおう断っておく。統一教会は批判されて当たり前の反社会的組織だ。そのようなカルトが政治に接近していたことに嫌悪感を抱くのは、人としてごく自然な反応だ、と充分理解している。ただ・・・である。日本国憲法はそういうカルトの信者にも信仰の自由と参政権を保障している。従って、カルト信者が政治家と接点を持つことを咎めるのは、立憲主義を重んずる限り不可能なはずなのだ。
なおも誤解を招きかねない余地がありそうなので、重ねて記したい。はっきりさせておくが、メディアに、統一教会のことを取りあげるな、と主張している訳ではない。不適切、と思われるのは取りあげたタイミングと取りあげ方だ。
やはり安倍氏暗殺直後からテロ行為に呼応するかのように統一教会批判の報道を開始したのは、いかにもタイミングが悪すぎた、と感じている。なぜなら、今回のテロと統一教会は、直接的にはなんら関係がないからだ。テロリストは、所謂カルト信者二世で、統一教会に自分の家庭を破壊された被害者ではないか? と考える方もおられるのかもしれない。だが、そうであったとしても、統一教会に罪を償わせるための適切な手段はテロではないし、テロであってはならないのだ。統一教会と接点があっただけの安倍氏を暗殺したテロリストの行動にはわずかな合理性も認められない。
では、なぜテロリストはあえて非合理な選択をしたのか。そこにアベガーやアベガー系メディアの反応をあらかじめ意識した計略があったとしたら、今たれ流されている統一教会を巡る報道のあり方こそがテロリストの思う壺、ということになる。
ところが、この「テロリストの思う壺論」は、存外世間的には旗色が悪い。それだけアベガー系メディアのミスリードが世間に浸透してしまっている証し、といえなくもないが、もしその通りなら、反対に日本国民のメディアリテラシーの水準を嘆かざるを得ない。この国のメディアの低劣さは詰まるところ論点を的確に把握する能力に欠ける国民一般の質の低さに由来している、という疑念を払拭できなくなるからだ。
しかし、自虐は、結論にならないし、建設的でもない。やはり飽くまで批判の矛先を向けるべきは、国民を啓蒙するかのように装いながら、その実ミスリードしているにすぎないメディアの方だ、と改めて断じたい。
安倍氏暗殺と同月26日に「秋葉原無差別殺傷事件」の犯人加藤智大死刑囚の刑が執行された。唐突になんだ? と思わないでほしい。実は加藤元死刑囚と安倍氏暗殺犯の山上徹也容疑者には共通項があるのだ。
「拡大自殺」という言葉をご存じだろうか。本来自らに向けられる殺意が他者に向う現象のことだが、加藤元死刑囚・山上容疑者はいずれも事件前自殺願望を有していた(山上容疑者には自殺未遂歴あり)。仮に拡大自殺も広義の自殺、と考えるなら、メディアには通常の自殺報道同様特別な配慮が求められるはずだ。
WHOは『自殺対策を推進するためにメディア関係者に知ってもらいたい基礎知識』の中で「模倣自殺」を招かないよう自殺者への過度な共感に繋がりかねない報道に対し警鐘を鳴らしている。にも拘らず、この国のメディアは、現状、それとは正反対の報道姿勢を取りつづけている。
自殺者であれ、拡大自殺者であれ読者や視聴者の共感を得られそうな背景があれば、微に入り細を穿ち報じて情に訴えようとする。加藤元死刑囚の場合でいえば、毒親(母親)による虐待。山上容疑者の場合はカルト信者二世だった境遇だろうか。
メディアによる詳報の結果、加藤元死刑囚と山上容疑者にはさらにもうひとつの共通項が生まれる。事件の後ふたりとも「聖人」に祭りあげられたのだ。WEB上に残されていたふたりの言葉——加藤元死刑囚が掲示板に、山上容疑者がツィッターに残した言葉は、既存のメディアによって脚色された後、SNSで拡散され、彼らの「信者」を生んでいった。そして、報じた方のメディアは悪びれることなくお決まりの結論に人びとを誘導して悦に入るのだ。
「彼らは歪んだ社会の犠牲者ではないのか」
或る種のメディアとその主張を支える活動家たちにより加害者の被害者化が公然と成されてしまうこの国の現実。はたしてそれは正常といえるのだろうか。
「何故かこの社会は最も愛される必要のある脱落者は最も愛されないようにできている」
これは、山上容疑者がツイートした言葉だ。或る映画の主人公に山上容疑者は強い関心を寄せていた。トッド・フィリップス監督作品『ジョーカー』。名優ホアキン・フェニックスが主人公ジョーカーを演じた。
劣悪な家庭に育ち、貧困に喘ぐ中、訳もなく馬鹿笑いする奇病を患いながらも道化師として懸命に生きていたジョーカー。けれども、報われないまま孤立を深め、虐げられつづけた挙句地下鉄の列車内で絡んできた裕福なエリート証券マン3人を護身用の銃で射殺してしまう。
京王線無差別刺傷事件の服部恭太容疑者も供述中ジョーカーへの憧れを口にしたというから、まったく呆れた影響力だが、むろん映画に罪などあるはずもない。
名を挙げた三人の拡大自殺者も人生の被害者といえば、被害者なのだろう。被害者は甘美な立場だ。批判を回避できるうえ、同情に起因する共感を呼ぶことすらあり得る。だが、被害者であることは行動を正当化する根拠にはなり得ない。
映画の終盤にジョーカーは超格差社会の被害者を自認する貧困層の人びとから抵抗運動の闘士と見做され英雄視される。かつて起こった社会主義革命のリーダーのように。革命の結果ユートピアは生まれただろうか?
答えは歴史の中にある。人間にユートピアは創れない。可能なのは永遠に社会の有り様を微調整することだけなのだ。もしメディアが、その現実を受けいれようとせず、テロリストや犯罪者を安易に社会の犠牲者と見立てつづけるなら、しばしば耳目に触れる「マスゴミ」という蔑称から逃れる術はけっしてないだろう。
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清水 隆司
フリーライター。政治・経済などを取材。