江戸川区立中学校教諭が関与したされる殺人事件、周囲の評判等による本人の印象と冷酷な事件とのギャップに驚きを隠せない。
この容疑者、実際にはどういう人物だったのか、興味が湧いたのでネットで検索していたところ、集英社オンラインのネットニュースの見出しに「老婆」という文字を見つけ、事件以上に驚かされた。長文なので、省略して紹介すると、「江戸川区・中学教師《中略》は窃盗目的で押し入り認知症の老婆も切りつけた?」(集英社編集部ニュース班、2023年5月10日)である。
「老婆」なる言葉、古典文学/芸能には登場しても、常識ある現代人はまず使わない、もはや死語(?)ではなかったのか。
仮にも日本の言論界の一翼を担う出版社が高齢女性を貶め、著しく品位に欠ける表現を臆面もなく使用するなんて、と呆れ返ったが、今度は岸田首相が広島サミットに関連したインタビューで、「G7の首脳夫妻を家内とともに平和公園に案内する」と語っていたのを聞いた。「家内」には「女性の役割は家事・育児」という固定的なジェンダー役割の含意がある。政府が進める「女性活躍」にはそぐわない。
そこで、こうした言葉の選択に深く結びつくポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ、以下ポリコレ)について考えてみることにした。
ポリコレは、「日常的に不利益を被り、差別を受けている人びとを侮辱し、傷つけ、また差別を煽るような言葉と行為を避けること」と定義されている(REACHOUT, “what’s the deal with political correctness?”)。
この言葉、もとはマルクス・レーニン主義から生まれ、ソ連共産党が粛清や強制労働、飢餓など不都合な事実を覆い隠すために用いた(Roberta Schaefer, “The history of political correctness and why it’s gone way too far,” Jan. 14, 2020)。
西側に登場したのは1970年代で、新左翼運動の活動家たちが、中国共産党の書籍の英訳から借用し、自虐的に使ったらしい(REACHOUT)。だが、その後、アイデンティティ政治の高まりによって、差別や抑圧を受けてきた人びとの尊厳を回復するためのポジティブな用法に変化した。
その対象は、一般的に女性、性的マイノリティ(LGBTQ+)、人種/民族/宗教/言語等における少数派、障がい者、高齢者である。「老婆」「家内」は女性を侮辱あるいは軽視する表現だが、こうした明らかな問題用語はともかくも、無意識のうちにポリコレに反する言葉を使うことは結構あるように思われる。
たとえば、私たち日本人にはイギリス人といえば白人というイメージが植え付けられているので、非白人系イギリス人につい「出身(国)はどこ?」と尋ねてしまうかもしれない。しかし、それは極力避けなければならない。というのも、その人の出身国は問われるまでもなくイギリスなので、ポカンとされるばかりか、人種/民族差別主義者と非難されかねない。代わりに「ルーツ」を聞くのが無難である。
なかでも、女性や性的マイノリティといったジェンダーにまつわるポリコレはハードルが高い。以前の投稿でも述べたが、「男女平等」「男女を問わず」のような男性と女性を並列する表現は、性別二分論に立ってジェンダーの多様性を無視するため、使用を避けるのが賢明だ。
また、当該人物が自分の性別やジェンダーアイデンティティを明らかにしていない場合、その名前や外見から勝手にジェンダー(性別)を特定せず、どのジェンダーカテゴリーに属するのか、本人に率直に聞くのが望ましい。
文章中のある人物について三人称を使う事例では、ハードルがさらに上がる。性別二分用語の彼/彼女に代わる言葉は何か。英語圏では「they」が提唱されているが、たった一人を指して「they」というのは抵抗がなくもない。日本語だと「彼ら」になるが、この表記だと男性を指すことになるので、「かれら」であろうか。私自身は、極力三人称の使用を避け、名前を繰り返す、「同氏」という表現にするなどしてお茶を濁している。
ポリコレは煙たがられ、不当な「言葉狩り」だと非難されやすい。これは、日本に限ったことではなく、英米でも同様で、バックラッシュを受け、保守派や右派の攻撃の的になってきた(The CONVERSATION, “Political Correctness: Its Origins and the Backlash Against It,” August 20, 2015)。
ポリコレに自由の侵害や監視社会のような負の側面が付きまとうのは確かだ。しかし、ポリコレを声高に非難するのが大抵は正さなければならない言動を行なってきた側であり、他方正そうとするのはそうした言動の被害者だということを考えれば、非難は当事者の自己弁護のようにみえる。
過剰に言い立てることは慎むべきだが、この概念は「誰もが暮らしやすい共生社会」(首相官邸)には欠かせない作法なのである。