創価学会の池田大作名誉会長の死については、すでに『池田大作氏の死:日本が平和で豊かだった時代の終焉』という記事を書いて各方面から、さまざまな反響を頂いていた。
今回は、葬儀も終わった段階で、PRESIDENT Onlineに『ただの「創価学会の三代目会長」ではない…池田大作氏が「カリスマ的指導者」として絶対視されたワケ創価学会と公明党は迫る危機を克服できるか』という記事を公開した。
記事では池田氏のカリスマ性の秘密を解き明かし、また、今後の創価学会と公明党の課題なども書いているが、ここでは、池田氏の宗教指導者としての卓越性について記事の内容を敷衍して論じたい。
ここで池田氏については、「傑出した宗教家であり、思想家、著作家、教育者としても成功し、世界的な文化活動や平和運動の支援者であり、政界の陰の実力者で日中国交回復の功労者であった」。
また、これはアゴラの記事でも書いたが、「宗教指導者としては、日本仏教史で、日蓮や親鸞といった教祖を別にすると、聖徳太子、行基、蓮如と並ぶ存在だといって差し支えあるまい」としている。
このアゴラの記事について、中村仁氏が、アゴラの記事で、「そこまでいっていいのかなあと、感じました。私には宗教家というより、大衆運動家だったという印象です。あるいは大衆運動家兼宗教家という側面で考察したほうがすっきりした評価ができる」と表されていた。
そこで、「宗教家でなく大衆動員に長けた俗物といった論者がいたが、教団を発展させるリーダーは学識だけでなく、優れた組織の運営者であり、カリスマ的な大衆人気が必須だ」と書かせてもらった。
宗教家といっても、イエス・キリストのような教祖もいるし、トマス・アクィナスのような思想家もいる。だが、既存の宗教を発展させた宗教運動家の場合は、大衆を動かし、組織を巧みに経営することが基本的な役割だ。
もちろん、ムハンマドは教祖であるとともにそれ以外のすべてを兼ね備えていたし、アショーカ王や聖徳太子や光明皇后は、統治者としての立場を活用して、教団の発展にも寄与した。
それに対して、行基は大仏建立という国家目標にも協力しつつ、大衆の教化に奇跡的な成功を収めた。空海については、教祖であるので別扱いにしたし、また、のちに教団が創り上げた伝説で実像が見えにくくなっているが、やはり優れた宗教運動家だった。
蓮如は親鸞の子孫で本願寺を引き継いだが、当時の浄土真宗は東日本諸派や仏光寺は隆盛だったが、本願寺は親鸞の墓所を守っているだけに近く、蓮如自身も天台宗の青蓮院の末寺のようになっていた。
それを延暦寺と対立し、近江や越前に逃れてそこで信徒を獲得して大教団に発展させ、また、当時のニューメディアとして手紙方式の「御文」を駆使した。
蓮如は近江各地を徘徊したが、守山市荒見というところにも滞在し、そこで、御文を書き始めたのである。その荒見は私の本籍地の隣の在所で、我が家も門徒だからこの歴史は私の先祖への思いとつながっているのである。
やがて、京都に戻り山科本願寺を設立し、大坂には石山御坊の基礎をつくるなどして、農民大衆の宗教としての浄土真宗を築き上げ、やがて教団は織田信長の最大のライバルといわれるほどになった。
その蓮如は、政治力もあるし、教団経営にあたっては、非情さを発揮することも必要なこともあり、それを俗物ということも可能だろうが、それは教団を発展させた宗教家は多かれ少なかれ同じだ。
その意味で、中村氏が「私には宗教家というより、大衆運動家だったという印象です。あるいは大衆運動家兼宗教家という側面で考察したほうがすっきりした評価ができる」と仰るなら、行基も空海も蓮如もみんなそうではないかと思うのだ。
また、戦後二代目会長となった戸田城聖氏が15年トップだったあと、60年以上にわたってトップとして君臨し、日本最大の宗教団体とし、日本発の宗教としてはじめて世界に向かって発展し、政治的にも大きな力を持つまでに育てたのだから、両者の教義については、創価学会も浄土真宗も相容れないだろうが、偉大な宗教指導者としては似ているし、むしろ、池田氏の方が大きな存在だということに何の疑いもないと評価するのである。