日銀が8年ぶりにマイナス金利を解除し、YCCやETF買い入れも終了した。これ自体は市場が織り込んでおり、いま思えば1年前に植田総裁が就任したときから「1年かけてゆるやかに正常化する」という出口戦略が決まっていたのだろう。
しかしこれは問題の終わりではない。保有国債が500兆円を超えた日銀は、世界最大の時限爆弾を抱えているようなものだ。これから金利上昇局面になると、何が起こるかわからない。
インフレ目標は最初から無意味だった
そもそも黒田総裁の掲げた「2年でマネタリーベースを2倍にして2%のインフレを実現する」という目標は、理論的にも実務的にもナンセンスなものだった。
2%のインフレ目標がなぜ必要なのか。黒田総裁は、その根拠を「グローバルスタンダードだから」としか説明できなかったが、世界各国のインフレ目標はインフレを抑制する目標であり、日本のように物価を上げる目標を掲げた中央銀行はない。
なぜ安定している物価を上げないといけないのか。その理由は二つあった。
- 名目賃金の下方硬直性:賃金を上げることは容易だが、下げることは困難なので、デフレになると実質賃金が上がるため、インフレで実質賃金を下げて雇用を増やす。
- 名目金利のゼロ下限制約:中立金利(均衡実質金利)がマイナスになった場合、政策金利はゼロ以下に下げられないので、インフレでマイナスにして金融緩和の「糊代」をつくる。
しかし賃金については、政府も日銀も賃上げを財界に要請している現状で、まったく意味がない。賃上げ要請は、インフレ目標と矛盾する政策なのだ。
ゼロ下限については、昨今のように財政赤字で需要不足を埋めることが常態化している状況では、金利で需給ギャップを埋める「糊代」をつくる必要はない。要するに最初からインフレ目標は無意味な政策目標であり、それが実現する可能性もなかった。
黒田総裁のポパー的失敗
以上は10年前に(私を含めて)圧倒的多数の経済学者が警告したことだが、黒田総裁はそれを無視して10年間、超緩和政策を続けた。
西野智彦『ドキュメント異次元緩和』を読むと、黒田氏は最初から最後まで日銀の中では孤立無援で、味方は雨宮副総裁しかいなかったことがわかる。日銀OBの私の知人も、すべて黒田路線は失敗するとみていた。
それではほとんどの専門家が反対した政策を、黒田氏が10年も続けたのはなぜか。最大の理由は安倍首相の権威だが、黒田氏がカール・ポパーの信奉者だったことと無関係ではない。
ポパーは理論は「反証」によってチェックされると考えたが、反証の解釈は何とでもできる。すべての事実の背景にはそれを生み出すパラダイムがあるからだ。
黒田氏も「2年前後」とか「長期的には」などといいながら6回も延期し、2018年以降はインフレ目標に言及しなくなった。それでも彼は「賃金や物価が上がらないノルムが根強く残っている」などという意味不明な言い訳をして、緩和をやめなかった。
つまり理論は事実でチェックできないのだ。それを反証とみなすかどうかというメタレベルの解釈がパラダイムに依存するから、そのパラダイムを信じている人はいろいろ言い訳して、反証を反証と認めない。だから誰も黒田氏の暴走を止めることができなかった。
黒田総裁の「致命的な思いあがり」
もう一つの黒田氏の失敗は、日銀がマネタリーベースを操作して経済を動かせるというポパー的な社会工学だった。これはエリートがあらかじめ正しい目的を知っていて社会をコントロールできるという思想だが、ポパーの友人ハイエクはこれを社会主義と同じ「致命的な思いあがり」だと批判した。
社会主義はエリートが計画経済で成長を実現できると考えたが、実際にできたのはスターリン官僚による独裁体制だった。社会主義というパラダイムを否定するパラダイムを認めない体制は、必然的に腐敗するのだ。
ケインズ以来のマクロ経済政策は、財政・金融政策でエリートが経済を支配する社会主義だった。彼らは失業が増えたら財政支出を増やし、インフレになったら金利を上げる社会工学で経済が成長すると考えていた。
それを30年続けた日本の一人当たりGDPはG7で最低になり、国民負担率は50%に近づいている。日銀の供給したチープマネーは大企業の海外投資に回り、中小企業のゾンビ救済にあてられたからだ。
官僚が高齢者の既得権を守った結果、毎年数十兆円の所得が現役世代から移転され、過剰貯蓄として死蔵されている。これが日本経済の成長できない大きな原因である。
30年前に社会主義が崩壊したとき、人々は資本主義の勝利は自明だと考えたが、そうではなかった。エリートはつねに社会主義で大衆を支配しようとし、大衆もバラマキを求める。地獄への道は官僚の善意で舗装されているのだ。