4月4日のNewsPicksに、「未来を考えるには『小説』が必要だ」としてインタビューが載っています(有料)。タイトルだけだとなんの記事かわからないかもですが、どうしてみんな「20XX年問題」みたいな話がここまで好きなの? を考える内容です。
有料記事の中身をそのままは書けないので、無料の動画を挙げると、コロナの渦中だった2020年に小林秀雄賞をいただいた際のスピーチでも、ミヒャエル・エンデの『モモ』(原著は1973年。あ、これも小説だ!)と対比しつつ令和の「こんな未来必ず来るビジネス」を論じたことがありました。
『モモ』に出てくる有名なモチーフは、灰色の男たちが売り込む「時間貯蓄銀行」。あなたの暮らしの時間を削って、われわれに預ければ、あとで利子がつくのでお得です――と称して「いま」の幸せを削り取っていく。ウェーバー的な「禁欲・倹約」で成りたつ資本主義の隠喩ですよね。
ところがそこから半世紀経ったいま、小説ではなくリアルに展開するのは貯蓄銀行どころか、むしろ「時間投資信託」だったわけです。たとえばシンギュラリティで人間が不要になる未来が「2045年に必ず来ます!」と断言して、それに備えるためには僕のAI企業に投資を、そのとき失業しないように私の自己啓発本を買って、とやるわけですね。
そうした未来予測に従えば、そろそろ無人ドローンとロボットだけがゲームのように戦う「人の死なない戦争」の時代になるので、防衛予算は陸海空よりサイバー部隊にドカンと投じるべき……だったんですけど、そんなことは起きていない。でも「時間投信」の販売員たちは、もちろん反省しない。
むしろ「ロシアやウクライナみたいな『民度の低い』国が多いから、ああなった。人を殺さない『意識の高い』戦争の到来を早めるためにこそ、もっともっとシンギュラリティに投資を!」としか、たぶん思ってない。
どうして「こうなると決まっている未来」なるものを(勝手に)作って、そこを足場に呼びかける人が、ここまで多くなったのか?
それは、「過去(歴史)がもはや不確かだから」でしょう。
インタビューでも少し触れましたが、1977年に山本七平が元号を論じる形で、面白いことを言っています(『日本人の人生観』所収)。1945年の夏からは「戦後○年」という数え方をするのと同じように、戦前には「関東大震災から○年」といった言い方を普通にしていた。
「誰それ王(日本の場合は天皇)が即位してから何年目」というのも、そうした数え方のバリエーションに過ぎないと考えれば、元号に近いものは意外と世界中に見いだせるということですね。
結局これは、その社会共通のある「起点」からどれだけ時日が過ぎ去ったかを計り、それによって自己の位置を確かめるという一方法であり、その民族の歴史が長くなれば、長短二つの尺度が使われて当然なわけである。
(中 略)
原則的には「長期の尺度」では自己の歴史的・伝統的・民族的な一種の「根源」を基準とし、短期的には自己および同時代人が直接・間接に経験している共通の体験を「起点」としているわけである。
『日本人の人生観』129頁
逆にいえば、同じ時代を生きる人どうしがバラバラになり「共通の体験」を持てなくなれば、「あれから○年」といった形で時間軸を共有することが、もうできない。
たとえば日本人にとってのコロナは、個々人にとっての「私にうつすな」の集合体にすぎず、実は共通の体験ではなかったわけです。ウクライナ戦争なんてもっと他人事だから、開戦から2年が経った節目に論壇誌が組む特集が「私はSNSで大活躍」トークだったりします。
だから、かつては「戦後○年を歩んできた私たち」と表現したとき自ずと伴っていた、なんらかの共同体意識を社会に持たせるためには、(たとえ嘘でも)「20xx年にこれこれを迎える僕たち」と言わざるをえない。
そうした時代としての現在をどう生きていくべきなのかを、参考になる文献や小説を紹介しつつ論じるインタビューになっています。多くの人の目に留まるなら幸いです。
P.S.
また別の媒体の有料記事で恐縮なんですが、山本七平についてはこちらでより深く論じました(かなり長いです)。たぶん日本史という分野に関しては、これ以上の文章は自分はもう書かないと思います。
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2024年4月4日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。