トランプの副大統領がベン・カーソンであるべき理由

有罪評決が下された以上、マーチャン判事は予告した7月11日に量刑を出す。その日までにトランプがやるべきことは、6月27日に行われるバイデンとのテレビ討論会、7月15日~18日の共和党大会に向けた副大統領候補の決定、そしてニューヨーク(NY)州最高裁に行う控訴の準備である。

トランプへの有罪評決を陪審員に出させた判事の指示書を読む
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本稿では副大統領候補を誰にするべきか考えてみたい。

トランプは「NY口止め料裁判」評決1週間前の5月23日、「ニュース12」に対し、「素晴らしい仕事をするであろう」人物として、マルコ・ルビオ上院議員(フロリダ)、JD・ヴァンス上院議員(オハイオ)、エリーズ・ステファニク下院議員(NY)、そして脳神経外科医ベン・カーソン博士の名を挙げた。

他にも、ティム・スコット上院議員(サウスカロライナ)、トム・コットン上院議員(アーカンソー)、ノースダコタ州知事ダグ・バーガム、そしてニッキー・ヘイリーらの名が取り沙汰されている。この内、スコットとヘイリーは今回の、ルビオとベン・カーソンは16年の大統領候補をトランプと争った。

共和党員だから、いわゆる民主党的なもの -LGBTや反ユダヤデモや緩い投票資格など- には反対で、むろん親トランプだ。とりわけ議員や知事の経験者は過激であり、下院党議長ステファニクは名門大学長の首を取ったし、ヘイリーも結局トランプに投票すると述べたが、最後まで選挙戦から下りなかった。

それに比べて、16年の大統領選後にトランプ政権の住宅都市開発(HUD長官)を最後まで務めたベン・カーソンは、これまでの小児脳神経外科医としてのキャリアや、そして何より物腰や語り口が、これら根っから(ヴァンスは物書きだった)の政治家とはだいぶ違っている。

ベン・カーソン氏とトランプ氏(Wikipediaより)

福音派のペンスと同様、信仰心の篤いベンは、どんな状況においても至って穏やかであり、左右を問わず多くの米国人に絶大な人望がある。筆者は、熱く演説するトランプと、静かにその後ろに立つペンスの組み合わせが好きだった。以下にトランプが副大統領に選ぶべきベン・カーソンのことを述べる。

「Gifted Hands」

彼の講演は、15年5月に大統領選挙運動を始めたこともあるが、それ以前からも、またHUD長官を辞めた後も何百回となく講演を行っている。生い立ちや経歴、信仰などに係る彼の講演は人気があり、youtubeにも数多くUPされている。いつも彼がそこで話すのは「THINK BIG」(夢を大きく持とう)ということ。

それは、ベンが母から教えられ、また自ら経験し、そして自ら考えついたモットー、すなわち「Talent(才能)」「Honesty(正直)」「Insight(洞察)」「Nice(親切)」「Knowledge(知識)」「Book(本)」「In-depth learning(深く学ぶ)」「God(信仰)」の頭文字である。

1951年9月18日、デトロイトの貧しいアフリカ系の家族に生まれたベンは、小5まで組一番の劣等生で、同級生や先生からも馬鹿にされた。ベンが8歳、兄が10歳の頃、両親が離婚した。父が他にも家庭を持っていたからだった。母は生活を支えるため、金持ちの家の子守や掃除を何軒も掛け持ちした。

教育こそ息子の成功の鍵だと考えた母は、「金持ちの人達のできることは、お前達にもできる」と励まし、週二冊の読書感想文を書かせた。ある時、一番の生徒しか答えられなかった単語の綴りを、ベンも本で読んで知っていた。こうして時間さえあれば本を読むようになり、中2になるとトップに躍り出た。

癇癪持ちだったベンは、中学の時ナイフで友達を刺してしまった。バックルで刃が折れて事なきを得たが、ベンは頭が狂ってしまったと思い、浴室で「自分の癇癪を取り除いてください」と聖書を読みながら神に祈った。4時間経って浴室を出た時、ベンはかわっていた。癇癪を抑えられるようになったのだ。

こうして高校でも信仰と読書を糧に「為せば成る」とばかり勉強に励み、進学テストではどこの大学でも行ける高得点を取った。エール大学に進んだベンは、同級生の得点が自分より高いことを知り、更に勉強に打ち込む。3年になった時、後に結婚することになるキャンディ・ラスティンが入学して来た。

エールからミシガン大学医学部に進んだベンは、成績が伸び悩む。講義中心の勉強が理由と気付いたベンは、講義より教科書や関連資料を読むことに切り替え、成績向上に成功する。夏休みに母の子守先の会社でクレーン操作のアルバイトをしたベンは、対象を立体的(3D)に計測する自分の能力に気付く。

脳外科医として患部を3D的に捉える特別な能力は、クレーン操作で見出されたのだ。ミシガン大の実習で教授が後頭部頭蓋底にある「卵円孔」を探るのに苦労しているのを見て、ベンは小さい金属の輪2つとX線を用いた器具を思い付き、教授に実演して見せた。間もなく教授達は挙ってそれを使い始めた。

斯くて脳神経外科医を志したベンは、世界で最も優秀かつ有名なジョンズ・ホプキンズ大学病院を研修先に選んだ。キャンディと結婚したのは彼女がエール大を卒業し、ベンがミシガン大医学部3年になる時だった。二人はミシガンから大学病院のあるメリーランド州ボルチモアに引っ越した。

研修で実績を上げたベンは医局に残るよう勧められる。が、知り合っていたオーストラリア人の脳神経外科医のいるパースの大きな脳神経外科センターで1年間腕を磨いて、再びジョンズ・ホプキンズに迎え入れられた。数ヵ月して小児脳神経外科部長のポストが空き、後任に収まった。まだ33歳だった。

ベンが殆ど成功例のなかった「脳半球切除」の手術を行ったのは、それから1年も経たない頃だった。マランダという幼い少女は、口の右側が震えだすのを合図に、顔の右半分、右腕、右足、そして身体の右側全体へと震えが広がり、最後には脱力状態に陥ってしまうのだった。

ベンは脳の左側が損傷していると確信し、「脳半球切除」を両親に提案した。自身初めての手術なので途中でマランダが死ぬことも、また右脳にダメージを与えるかも知れないとも伝えた。もし手術をしなかったらどうなるかと問う両親に、「悪化して、死ぬでしょう」と話すと、両親は手術を承諾した。

ベンは両親に、「今夜は神様に祈って欲しい。祈りは力を与えてくれると私は信じています。私も祈ります」といい、両親は同意した。10時間に及ぶ大手術だった。大量出血の処置に追われた8時間が過ぎた頃、脳の左半分は切除されて、頭蓋骨は元通りに固定された。

手術室を出るストレッチャーにベンが付き添うと、待合室から両親が飛び出して来てマランダにキスした。すると彼女は眼を開け、小さな声で「愛してるわ、パパ、ママ」と小さな声で言った。言語中枢を司る左脳を切除したのに、さらに右腕と右足も動かしている。手術は成功したのだった。

これをきっかけにベンは、ジョンズ・ホプキンズを頼って訪れる、発作で苦しむ子供たちに「脳半球切除」を施し、健康な生活に復帰させた。そうした患者の中にドイツで生まれた、頭部で繋がったままの「シャム双生児」がいた。多くは死んでしまい、生きて生まれるのは2百万分の1の確率だった。

一生に一度の大手術には医師、看護師、技師ら70人が関わった。22時間後に手術は終わったが、双子の昏睡状態は続いた。両親やベンたちに出来ることは祈りだった。10日後、ベンが病室に行くと双子が体を動かしている。双子は眼を開けて辺りを見回した。数ヵ月後、双子は両親に抱かれてドイツに帰った。

こうしてベンはすっかり有名人になり、米国中、世界中の病院から注目され、また講演者として引っ張りだこになった。ベン・カーソン博士は、難しい手術の傍ら、老若男女あらゆる聴衆を前に、自分の歩んで来た道について語ることになった(『現代のヒーロー ベン・カーソン』(福音社)を参考にした)。

先鋭化し過ぎている今の米国社会には、「Calm down」(沈静化)が必要だ。ベン・カーソン博士は、その物腰も表情も、また語り口も穏やかであり、まさ「calm」が背広を着ているようだ。共和党大会まで余すところ1ヵ月、果たしてトランプはこの「Gifted Hands」をランニングメイトに選ぶだろうか。