兵庫県知事選挙では、前知事の斎藤氏が再選した。
兵庫県知事をめぐる一連の流れは、私がここで語るまでもない。
また、本記事がアゴラに掲載される頃には、既存メディアによる世論誘導に関する問題を指摘する記事があふれかえっていることと思う。
手前味噌で恐縮だが、私の寄稿記事がアゴラに掲載された9月10日、ネットメディア含めて、中立的な記事はほとんどなかった。
そんな中、本記事を取り上げてくれたアゴラに謝意を表したい。
「真偽不明の情報」と「メディアの敗北」
私が興味をもったのは、選挙戦終盤から斎藤知事が勝利した直後にかけて、多くのメディアに書かれた二つの言葉だ。
一つ目は「真偽不明の情報」だ。
選挙戦中盤以降、既存メディアがネットの情報に対して盛んに言い立てたのが、「根拠のない偽情報」、「真実の確認がとれない情報」という批判であり、要約すると、
- ネットに流れている情報は根拠がないものがほとんどだ
- それを無批判に信じているネット利用者が世論を形成している
という文脈だ。
確かに、ネット上に真実性が疑わしい情報が多数あったのは事実だ。
一方で、既存メディアが流した情報は正しかったといえるだろうか?
わかりやすいところで、斎藤知事に対する百条委員会の情報の扱いを指摘したい。
兵庫県議会の百条委員会で提起されたのは、あくまで「告発文書に記載がある疑惑の真偽」であって「事実」ではない。
その百条委員会で提起された「真偽の不確かな情報」をもって真実であるかのように扱い、その情報を前提に、芸能人などのコメンテーターに、斎藤氏を「最低の人間」であるかのように徹底的に批判させていたのは誰か?
それら一連の振る舞いは、メディア資本によりソフィスティケートされただけの「世論誘導」のための「情報の歪曲」ではないのか?
「メディアの敗北」という言葉も、非常に象徴的だ。
斎藤氏の当選に対して、キャスターの宮根誠司氏が「メディアの敗北」と総括したとある。
日本のメディアは本来中立・不偏不党な立場である「はず」なので、そもそもこの言葉が発せられること自体が異様だ。
百歩譲って、その発言の背景を読むと、
- 既存メディアは、平等性、ファクトチェック、プライバシー等の制約がある中報道する
- 一方、SNS等のネットでは、そういった前提がない中で情報発信される
- 故に、制約がある既存メディアが敗北した
という総括になっている。つまり、「斎藤氏の首をとれなかったこと」をもって「敗北」と発言したのではなく、「平等性等を担保した既存メディア」が、「ルールなきSNS」に敗北した、と総括したとも読める。
しかし、もしこれが総括だとすれば、既存メディアは「平等性、ファクトチェック、プライバシー等の制約」がある以上、ネットの情報には永遠に勝てない、という意見表明となる。そのような見識ならば、報道から降りるべきだろう。
誰でもわかることだが、問題はそこではない。
メディアは、なぜ情報を中立的に扱えなかったのか、という点だ。
またあるいは、(日本のメディアでそれができるかどうかおくとして)仮に「不偏不党なんてくそくらえだ」というのであれば、その意思表明をしたうえで、斎藤氏を追及したり、あるいは擁護したりするべきだろう。
つきつめれば、「不偏不党の皮を被ったメディアスクラム」で「斎藤潰し」に明け暮れた自分たちの姿を醜いと思わないから、先のようなおかしな総括になった、といえるのではないだろうか。
逆説的になるが、情報化社会のさらなる伸展により、既存メディアがますます重要度を増していることは間違いない。政治や事件の現場にある一次情報を、有価物としての二次情報に手際よくまとめて伝えるメディアがなければ、ネット情報は成り立たないばかりか、それこそ「真偽不明の情報」や「陰謀論」で収拾のつかないことになるからだ。
その意味で、今回の兵庫県知事選をひとつのエポックとして、既存メディアには本当の意味の総括と刷新を願いたい。