3/3(現地時間では前日)に発表される米国のアカデミー賞では、伊藤詩織監督の作品が長編ドキュメンタリー部門の候補になった。ところがご存じのとおり、日本での評判はいま、きわめて悪い。

性暴力の被害を訴えてきた彼女が、裁判以外では使用しないとの約束で入手したホテルの監視カメラの映像を、無許可で映画に流用していることが判明したためだ。こうした先例ができれば、今後は映像記録の「出し渋り」が起こり、他の性被害者が訴訟で不利になることが予想される。
そもそも昨秋にこの問題を告発したのは、訴訟時に伊藤氏の代理人を務めた女性弁護士だった。ところが伊藤氏は彼女を解任し(紛議調停で発言を封じようとしたとの報道もある)、自身に批判的な記事を書いた女性記者を名誉毀損で訴え、対して女性団体が伊藤氏に撤回を促す声明を出すなど、ものすごい展開になっている。
伊藤氏は当初、意に介さなかったようで、映画をめぐる寄稿でも問題には触れず、雑誌の側も(軽い断り書きを附しただけで)そのまま載せてしまう状態だった。ようやく2/20に公表された謝罪も曖昧な内容で、かつ18のオスカー投票〆切の後だったことから、かえって批判は強まっている。

あたりまえだが、伊藤氏も女性である。男女のあいだでの争いを見たときは、内容を精査せず「女性に味方する」のが正しいといった、杜撰で危険な発想を批判してきたぼくも、そもそも誰が「女性の味方」であるのか、ここまで判別不能なカオスを目にするとは思っていなかった。

笑いごとではないし、単に時事的なスキャンダルでもない。むしろ「いまという時代」に起きている、歴史の転換を象徴するトラブルであるように、ぼくには見える。
映画の基になった、伊藤氏が自身の性被害を綴った書籍『Black Box』が出たのは、2017年の10月。米国でもハーヴェイ・ワインスタインの性的搾取に対する告発が盛り上がるのと同時で、彼女が日本の #MeToo の象徴になるのは必然だった。
その果てに、どうしてこんな事態が起きるのか?
まだ #MeToo といえば「疑い得ない正義」の代名詞だった、2018年の6月の時点で、ぼくはこう警鐘を鳴らしている。

「私こそがこの組織のすべてだ」という存在がいないのは、誰もその組織の責任を取らないことと、表裏一体だからです。
昨今話題の #MeTooの発端は、ワインスタインという凄腕プロデューサーが力で脅して、女優さんや女性スタッフをレイプしていたと暴露されたことですが、アメリカでは権力の所在が明快な分、女性が勇気をふるって告発して、彼は逮捕された。
しかし日本の場合は、セミヌード広告の撮影を「役得」とばかりに関連企業の社員がぞろぞろ覗きに来るとか、特定の誰かに帰属しない「空気」みたいな形で人を搾取するから、誰をどう裁けば問題をなくせるのかが見えにくい。
その違いを考慮に入れずに、「海外の進んだ #MeTooを日本にも!」と叫ぶだけでは、平成に繰り返された「自己満足メインの運動」に終わらないか、とても心配しています。
強調を附し、段落を改変
被害者が顔と名前を出した上で、これまた顔と名前を持つ加害者を告発する #MeToo は「絵になる」。主人公と悪役が明快だから、メディアがストーリー化しやすいし、もし事実として悪事が行われ、責任の所在もまちがっていないのであれば、大きな成果を上げるだろう。
ところがそうした物語の形になりにくい、特定の個人というより場や関係そのもの(難しく言うと構造)が加害を誘発している場合、安易なストーリー化は逆に問題の本質を見えにくくする。最悪の場合は、むりやり誰かを「悪役」に据えて(いわゆるスケープゴート)、冤罪を生むこともある。

それはあらかじめわかってはいたけど、当時から7年ほど経って、事態は予想よりも遥かに斜め上というか、下を進んでいるように見える。
2024年の末から世相を揺るがす、中居正広氏とフジテレビのスキャンダルは #MeToo ではない。被害者は匿名で、加害者との和解の際に守秘義務を結んでいるから、なにが起きたのかはまったくわからない。だけどそちらの方が、TV局を潰しかねないと言われるくらい、「顔と名前」を出しての個人の告発よりも、社会を動かしてしまう。
「構造」にさえ働きかければ、個別の物語の中身は空っぽでもかまわないといった話が、ポストモダン華やかなりし1980年代には、ゼロ記号とか空虚な中心とか、楽しそうな語彙で語られた。だけど「内容は不明ですが、会社が潰れます」というのは、相当に不気味な事態である。

一方で、主体的に #MeToo に踏み切る意志を持つ「強い個人」こそが、世の中を変えていくとする発想は、モダンがポストになる前の「近代主義」だ。空気に呑まれる日本の場合、そうした意味での近代社会がそもそも脆弱だったので、顔と名前を出す告発者は、その時点で注目を集める。
まして近代の本場である欧米に伝われば、自らの同胞たる「近代人」が、前近代の野蛮な地域(日本)で戦っている! といったストーリー化はすぐ起きる。そうしたギャップを放置した果てが、今回のアカデミー賞トラブルだと見る向きもある。

しかし内外のメディアの注目が、単なる「キャラの立った個人」のスポイル(甘やかし)に終わるなら、結局は元の木阿弥だろう。「俺は人気タレントだから、ルール違反も許される」というのと、理屈としては同じだからだ。
実際に以下の記事によると、自らの映画への批判者を訴えた伊藤氏側の主張は、「映画がもたらす公益がさまざまな事情よりも上回る」というものらしい。要するに、世界が注目する告発者=監督の作品なんだから、細かいクレームは無視していい、と言っているようにしか伝わらない。

もともと日本に基盤のなかった近代は、#MeToo の時代もやっぱり素通りし、マイナスの爪痕だけを残していった。その後に続くのは、日本だけでなく世界中でも、ファクトもルールも関係なく勢いだけで社会が転覆される、これまたダークなポストモダンの嵐だった。

少なくともあのとき、#MeToo の可能性を雄弁に論じ、まねごとのハッシュタグに興じた人たちは、いまこそ口を開いて語るべきだ。それを抜きにして女性の権利はもちろん、ぼくたちの社会にあらゆる進歩などない。
(ヘッダーは海外でのポスター。集英社オンラインの記事より)
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2025年2月28日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。