
自身が犯した「誹謗中傷」が克明に実証されている11/29の私の記事を、noteに削除を要請し抹消を目論んだ中部大学教授の玉田敦子氏だが、その事実を12/19に公表したら、なんと1日で「いいね」の数が元記事を上回った。
こうした形で “歴史否定主義” はペイしないという実績を積み重ねることが、言論の自由を守り、令和の時代に正しく「人文主義」を再興することにつながってゆく。拡散に協力してくださったみなさんに、深く感謝したい。

noteの運営事務局には、同じ12/19の午前中に、むろん玉田氏の削除要請を拒否する旨を回答した。その際の文面を、この記事の末尾に掲げるが、そうするのには理由がある。
自ら汗をかいて、社会で自由に人文の話ができる権利を守ることなく、他人の努力の上にあぐらをかいて「うおおお俺たちが人文!」と叫ぶだけの “令和人文主義” が、先月末から炎上している経緯は、これまでも論じてきた。

この「令和人文主義」なる自称を始めたのは、哲学者の谷川嘉浩氏だが、彼のnote(何度か書き直されており、「元々の本文」とある箇所も実際には初出と違う、歴史修正主義が見られる)ではその特徴として、真っ先に

・文体が上の世代と全然違う
・受け手は学生よりも会社員(かつての教養主義は大学生を典型としていた。新しい知の観客を意識した語り方になっている。)
(強調は引用者)
が、挙げられている。自分たちの新しさの内実として、「まずは文章を読んでくれ」というわけだ。
それ自体はまったくよいことなのだが、実際に、この令和人文主義なる潮流で最も著名な三宅香帆氏(一度だけ面識がある)の「文体のどこが新しいのか?」を検証する人も多数出てきた。で、炎上に油が注がれている。

上の記事も異様に長く、優れた文章とは言いかねるが、私なりに批判の主旨を要約すると、
「わざと口語っぽく文章を崩して、こんなカジュアルに人文の話題を本で書く人あんま居なかったでしょ感を強調してるけど、それって “そうそう。こういう素人っぽい文章を書く人こそまさに私!” みたいな読者がいて、最初から同意し・共感し・喝采してくれることを前提にしてません?
その一方的な前提の決めつけ方って、”人文書を読むなら当然これくらいの教養は持ってるよな、ゴラァ!” っていう、これまでの教養主義とまったく同じもので、単に想定する読者のレベルを落としただけでしょ?」
ということを、言ってるんじゃないかと思う。

そして、この点こそがまさに、それぞれの人が掲げる “人文主義” がホンモノか・ニセモノかに、関わってくる。
過去の史実を削除要請で抹消しようとする、玉田敦子氏の “歴史否定主義” を批判した12/19の拙稿でも引用したように、コイツは自分と “違う” 相手だから潰してしまえという、不寛容や原理主義の対極に立つことこそ、人文主義の意義だからだ。

それでは、その玉田氏の削除要請を即座に棄却はせず、記事の著者(私)に「取り次ぐ」くらいには、私とは思考の前提や価値判断が “違っている” noteの運営事務局に対して、常々「ホンモノ」の意義を説いている私は、どんな文章を返したか。
それを公開しておくことは、私のモラルにとって、非常に大事だと思う。もちろん(逐一、応答したりはしないが)添削でもなんでも、好きなようにやってくれてかまわない。
特定の人に忖度してか、または差別してか、現状ではよくわからないが、削除要請を受けたnoteの運営が毎回、懇切な対応をとるとは限らず、一方的に削除して発言を封じる例もあるのでは? との声もいま、挙がっている。

書籍にカジュアル批評やカジュアル文藝評論があるように、そうしたカジュアル歴史否定主義や、カジュアル全体主義が、なにかの弾みで社会を覆うことが、いとも簡単に起きえる時代。
それこそが「令和」と呼ばれていることを、誰もがすでに知っている。向きあい続けるホンモノと、忘れたフリで “歴史を否定し” 無かったかのように振るまうニセモノが、いるだけで。

2025.12.19
(赤線は引用者)
私の「批判&その実践」はこちら
日ごとに違うものが “バズる”、SNSやオンラインの文章。つい周りに広め、「いいね」で著者への嬌声をあげ、あなた自身が満ち足りたくなるテキストの文体は、ホンモノだろうか?
以下が、不当な削除要請の被害者である私が今回、12/19にnoteの事務局に送ったメールだ。静かに読んで、日々の「いいね」を押す・押さないの指標に、役立ててくれるなら嬉しい。
ーー
note運営事務局 御中
與那覇潤です。平素大変お世話になります。
玉田敦子氏からの、拙記事への削除要請につき、メールとPDFを拝読しました。
結論としては、玉田氏の主張にはまったく理がありませんので、「送信防止措置を講じることに同意しません」。
つまり、記事の削除も、修正もいたしません。
今朝、玉田氏からのクレームと御社による対応を紹介し(丁寧な対応に感謝いたしております)、なぜ、彼女の削除要請に応じない・応じるべきでないか、新たな投稿の形で明示しましたので、お知らせいたします。

以下は、長さを考えて上記の記事には盛り込まなかった「玉田氏の削除要請に正当性がない理由」につき、補足の説明です。
削除を要請する「掲載されている情報」の欄に、玉田氏は
・「激しいバイアスのあるヤパい人」(彼女による記入のママ)、
・「偽善者の群れ」
という、拙稿の表現を引用しています。
しかし、これはそもそも彼女(のみ)を指すものではありません。
当該の私の記事では、中央部にある
むしろいま警戒すべきは、次のことだ。
で、明快に話題が転換され、議論が一度リセットされています。
「偽善者の群れ」とは、その話題転換の後で主題となる「令和人文主義」のカテゴリーに属して活動する人々を指しており、そもそも玉田氏を含まないことは明白です。

話題転換の前、玉田氏を批判する際にも、私は彼女の発言の証拠となるSNSの写真、また動画についてはサイト内で視聴可能なリンクを設けた上で、「何分何秒頃」と明示しての文字起こしを添えています。
これらはすべて、彼女自身が実際に行った発言=ファクトに基づいており、削除を要請されるいわれは、まったくありません。
さらに、私は拙稿が彼女に対する「個人攻撃」に終始することのないよう、
近世フランスの古文書から正しい史実なんてジッショーできるの? と思うでしょ? たぶんできてないだろうけど、そんなことはどうでもいい。
(強調箇所を原文から変更)
として、玉田氏個人の研究能力の高低は、今回の主題ではないと明示しています。
その上で、玉田氏個人ではなく歴史学界の全体、あるいは研究の傾向が似た学者どうしが集まって話す機会に醸される「極端な議論でも、あたかも自明な前提のように錯覚させる空気」、いま風に言えばホモソーシャルな環境の問題を、指摘しました(往年のマルクス主義史学など、具体的な事例も挙げました)。
「激しいバイアスのあるヤバい人どうしが頷きあっていた」とは、引用した動画内で実際にそうした環境が作られていたことを、批判する表現であり、玉田氏に対する個人攻撃を意図していないことは明白です。
また玉田氏は、
この玉田氏についてはもう一件、”やらかし” を知っている
と記した箇所も削除すべき対象に挙げ、あたかも別の “やらかし” は存在しないのに、私が虚偽の告発をしたかのように装っていますが、これも誤りです。
彼女はSNSで複数回の問題を起こしているトラブルメイカーであり、2021年10月の実例を根拠として、この記述を行った旨、本日公開したもう1本の記事にて、証拠となる画像を明示しながら詳説したことを申し添えます。

上記につき、玉田氏の要請に従って記事を削除、ないし修正することは、いたしかねますので、お伝えいたします。
読者からのクレーム(徹頭徹尾、不当なものでしたが)に対する今回の丁寧な対応に、ふだん寄稿させていただく著者として、御礼を申します。
お手数をおかけしますが、上記に沿ってご対応のほど、何卒よろしくお願い申し上げます。
與那覇潤
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参考記事:


(ヘッダーは「寛容」を考える、TBSの真に人文主義的な記事より)
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2025年12月20日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。






