
NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』の放送が始まった。第1回「二匹の猿」(2026年1月4日放送)で、主人公の豊臣秀吉・秀長兄弟が同父兄弟として描かれた。従来の大河ドラマでは、この2人は異父兄弟という設定であることが多かった。この設定変更は、歴史学界での研究の進展を反映している。今回はこの問題について解説してみたい。
秀吉・秀長兄弟の父親に関する一般的なイメージは次のようなものであろう。
秀吉の父は木下弥右衛門である。弥右衛門は織田信秀(織田弾正忠家、信長の父)の鉄砲足軽だったが戦場で負傷し、尾張国愛知郡中村(中村のうち、中々村。現在の愛知県名古屋市中村区)で百姓となった。弥右衛門は天瑞院(秀吉の母、一般に「なか」と呼ばれる)と結婚し、瑞龍院(秀吉の姉、一般に「とも」と呼ばれる)と秀吉の二子をなしたが、秀吉が8歳(数え年)の時に亡くなった。
そして弥右衛門の死後、天瑞院は、信秀に同朋衆(貴人に近侍する芸能民)として仕えた後、病気で中々村に戻ってきていた筑阿弥(竹阿弥)と再婚し、秀吉の異父弟の秀長、そして異父妹の南明院(一般に「朝日(旭)」と呼ばれる)の一男一女を産んだという。秀吉は継父の筑阿弥と折り合いが悪く、村を飛び出し、諸国を放浪した後、織田信長に仕えることになる。
上の記述は、江戸時代の延宝4年(1676年)に刊行された『太閤素生記』に基づく。一方、秀吉・秀長の父親について記した最も古い史料である、寛永2年(1625年)成立の小瀬甫庵著『甫庵太閤記』には、秀吉・秀長の父親は、織田大和守(清須織田家、達勝ないしはその後継者の彦五郎)に仕えた筑阿弥であると記されている。
『太閤素生記』の著者である旗本の土屋知貞は、尾張中々村出身で秀吉と同世代の養母から秀吉の逸話を聞いたというから、物語である『甫庵太閤記』よりも信憑性が高いと考えられてきた。ゆえに、異父説が有力であった。
また寛文4年(1664年)に百歳で没した京都の儒医、江村専斎の談話を筆録した江戸前期の聞書『老人雑話』によれば、賤ヶ岳合戦において秀吉は秀長の失態に激怒し、「身(自分)と種ちがったり」と弟を面罵したという。これも異父説である。
しかし『太閤素生記』は、秀吉の生年など重要な情報を間違えており(秀吉が天文5年1月1日に誕生したと同書は記すが、実際には天文6年生まれである)、同書の主張を軽々に採用できない。弥右衛門の経歴についても、史実との乖離の可能性が指摘されている。弥右衛門が鉄砲足軽であったとされる点は、弥右衛門が生きた時代にはまだ日本で鉄砲が普及していないので、矛盾をはらむ(種子島に鉄砲が伝来したのは天文12年のことである)。
加えて、瑞龍院や秀吉が生まれた頃の信秀の居城は勝幡城(愛知県稲沢市・愛西市)であり、弥右衛門が近隣の那古屋城主・今川氏豊や清須城主・織田大和守ではなく、遠方の信秀に仕えたというのは不自然である。
後に織田信長が清須城を本拠とするので、信秀が清須城を本拠としていたと誤認した土屋知貞が、秀吉が信長に仕えたことから逆算して、弥右衛門が信秀に仕えていたことにしたのだろう。したがって、秀吉・秀長の父親に関する『太閤素生記』の記述は、あまり当てにならない。
この問題を考える上で重要なのが、秀吉の姉である瑞龍院殿の菩提寺、京都の瑞龍寺(現在は滋賀県近江八幡市に所在)に所蔵されていたという木下家系図である。この系図は現存が確認されていないが、東京帝国大学の史料編纂官だった渡辺世祐が1939年に刊行した『豊太閤の私的生活』(創元社)に引用されている。東京大学史料編纂所が編纂した『大日本史料』第十二編之五では、「瑞龍寺差出」として紹介されている(18・19頁)。
同史料には、瑞龍院の父として法名「妙雲院殿栄本」を名乗る人物が見られ、その没年は「天文十二癸卯一月二日逝去」とある。この「妙雲院殿栄本」なる人物が『太閤素生記』のいう木下弥右衛門にあたるのか、筑阿弥にあたるのか、はたまた両人が同一人物なのか、定かではない。ただ、瑞龍院の父(つまり秀吉の父でもある)が天文12年(1543年)に死去したと記載があることは、『太閤素生記』とも記述が一致し、注目される。
ここで秀長の生年を確認しておきたい。江戸時代末期に編纂された『系図纂要』によれば、秀長は天文9年(1540年)3月2日に生まれたとされる。天正19年(1591年)1月22日に死去した秀長の享年は、江戸時代に編纂された諸書では「五十二」(数え年)と見え、これらの史料でも逆算により天文9年生まれということになる。
ただし、大和興福寺(奈良市)の塔頭・多聞院の僧侶であった長実房英俊が記した『多聞院日記』では、享年は「五十一」となっている。同時代の史料であるという点、また秀長が豊臣一門大名として治めていた大和国の人物による記述であるという点を考慮すると、51歳死没説を採りたくなる。
ところが、奈良国立博物館の所蔵文書で、天正18年10月の羽柴秀長都状がある。この都状は、重病の状況にあった秀長の平癒を期し作成されたもので、秀長が「羽柴大納言豊臣朝臣秀長」として記載される(苗字が「羽柴」で氏姓が「豊臣」であるという正確な理解が示されている)など、同時代のものと判断される。
同都状には「秀長五十一」との記述が見られる。都状の史料的性格からして、この記述は本人の自筆、または本人の確認を得て記したものであり、信憑性が高い。したがって、翌年正月に死去した秀長の没年齢は、当時の年齢の数え方(数え年。当時の人の年齢は、誕生時に1歳とし、正月に年が改まると年齢を1歳加える)に基づくと52歳であり、その逆算から生年を通説通り、天文9年と考えて問題ない。秀吉の3歳下の弟ということになる。
よって、天文9年生まれの秀長の父は、天文12年に亡くなった瑞龍院・秀吉の父と同一人物と見て良いだろう。






