豊臣兄弟は異父兄弟?:秀吉は父の墓も建てず供養もしなかった

NHK大河ドラマ『豊臣兄弟』が佳境に入ってきている。褒めていいのは、一般に膾炙している伝統的な太閤伝説、最近の学説や文学から出発した新説などをほどよくバランスをとり、よく分からないところは匂わす程度にとどめるなどしているので、安心して見られるところだろう。

NHK「豊臣兄弟!」より

豊臣秀吉とその一家については、『令和太閤記寧々の戦国日記』(ワニブックス)という拙著があって、おそらくどの伝記より詳細で、しかも年譜にしているから、真実はどうかという点からはぜひ読んでほしい。

今回から少し、これまでのところで、歴史的な事実とドラマでの描き方で気になるところを解説してみようと思う。

戦国時代の三英傑のうち、徳川家康は三河国額田郡の岡崎城で生まれた。織田信長は那古野城(愛知郡)で生まれたと言われてきたが、信長の生まれた頃は、父親の信秀はまだこの城を今川氏から獲得しておらず、海東郡(愛西市勝幡町)と中島郡(稲沢市平和町)の境界に位置する勝幡城で生まれたとみられる。

それに対して、秀吉は天文6年(1537)に愛知郡中村郷(名古屋市中村区)生まれだから、ただ一人、生粋の名古屋出身の天下人である。その秀吉が、天下人となってから誕生の地である中村郷を訪れたことがあるという伝説がある。天正18年(1590)に小田原征伐のために関東下向する途上、小早川隆景と加藤清正を連れて訪れ、年貢の免除などを決めたという。

中村区は名古屋駅の西側に広がるが、駅の西口から秀吉の生誕地とされる中村公園付近までは2km余り、徒歩30分ほどだ。清正が創建した日蓮宗太閤山常泉寺という寺が生誕地とされ、「秀吉公産湯の井戸」とか「秀吉手植えのヒイラギ」もある。その南隣には、加藤清正が名古屋城築城の余りの材料を使って創建した妙行寺がある。

秀吉の故郷が中村であることは、中村の代官、稲熊助右衛門の娘の養子で旗本だった知貞が、養母などから聞いた話をまとめた『太閤素性記』という資料に詳しく記されているし、江戸時代初めから地元で定説化されて異論もないので確実だ。

この中村から清洲城までは6kmほどで、徒歩でも通勤圏内である。ドラマでは長らく音信がなかったとかいうことになっているが、この距離ではそんなことはありえない。

ただ、父親については謎が多いというか、秀吉自身がほとんど関心を持たず、菩提を弔うこともしていないのだ。

『太閤素性記』は織田信秀の鉄砲足軽だった木下弥右衛門というが、その時期に鉄砲足軽などなかった。木下が名字なのは、のちに藤吉郎が木下を名乗ったことから類推しただけだろう。なにしろ、秀吉は父親の墓も建てていないし、父親の供養らしきものもしていない。取り立てた家来たちのなかに父親の親戚はいない。

いつの間にかどこかへ行ってしまって帰ってこなかったのではないか。秀吉の姉の「とも」は、父親には違いないので供養をしていたようでもあるが、命日としていたのは秀長が生まれたあとの年で、もしかすると、父親が出奔して両親が別れたあと、父親がよそで死んだという風の便りを聞いたということかもしれない。

母親の「なか」は、名古屋市昭和区御器所の出身らしい。なかには妹がいて、いちばん上は岸和田城主になった小出秀政(丹波園部藩祖)夫人で、関ケ原の戦いの前に福井城主だった青木秀以の母や、福島正則の母も妹で(異説あり)、加藤清正の母は従姉妹らしい。

弥右衛門と別れたあと、茶坊主として織田家に仕えていたこともある竹阿弥という男と再婚して、秀長と徳川家康の夫人となる旭をなしたともいう。秀長たちが異父弟妹であるかは両説あるが、私は、四人兄弟の父親にしては弥右衛門の影が薄いので、その可能性が高いと思う。

なぜなら、子供を4人もつくって、秀吉がものごころがついて何年かは一緒に暮らしていたとすれば、いかにも不自然だからだ。


令和太閤記寧々の戦国日記

【目次】
寧々は信長さまや家康さまより秀吉が好きです
秀吉がミッションインポッシブルな身分違いの結婚を成功させた秘密
貧しい出自を誇り母を大事にした秀吉が隠した“父親の影”
秀吉に「猿」とあだ名をつけた悪ガキ時代のマブダチ
職場で疎まれ者だった秀吉がジョブチェンジして評価されたワケ
「最初から決めてました」竹中半兵衛は信長ではなく秀吉を選んだ
天下って畿内だけ?秀吉がお市の方を狙ってた?寧々が質問に答えます
歌は十八番の1曲だけ!酒が出てくるのが遅いと帰る信長の接待は超たいへん
「その壺よこせ!」信長のパワハラを跳ねのけた戦国未亡人
寧々「あっ…(察し)」。浅井長政が義兄・信長を裏切った数々の伏線〔ほか〕

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