明の冊封と朝貢で始まった関係
今回は、琉球王国と明国および室町幕府との関係を『誤解だらけの沖縄と領土問題(増補改訂版)』清談社)からの抜粋で紹介する。
明帝国は後期には海禁政策をとったが、初期には積極的な海洋進出策をとり、その一環として、中山、南山、北山の3国鼎立時代の沖縄にも入貢を勧める使いがやってきた。船もすべて用意するという結構な話だったのでこれに乗り、明帝国からの冊封と琉球王国からの朝貢という関係が始まった。
琉球側からも贈り物をもっていくが、その何倍もの価値の物をくれた。さらには、外交や行政の専門家がいないだろうと福建省人を350家族下賜したという。これが久米と呼ばれる那覇の海辺に発展したチャイナ・タウンの人々で、仲井眞弘多元知事もここから出ている。
彼らの子弟が北京に留学して官僚を独占していたが、のちには、不満が高まって土着の上流階級にも門戸が開かれた。いずれにせよ、明は官僚機構を福建人や留学組を通じてコントロールしていた。
琉球料理も、中国からの使節をもてなすために、中国人料理人集団がやってきて食事を提供したのが始まりだ。自作自演で関係をつくり、実利を武器に、あらゆる分野に人を大量に送り込んで、乗っ取ってしまうのが昔から中国流なのだ。
中国への朝貢使節は、だいたい2年に1度派遣された。300人ほどの一行で、中国から提供されたジャンク船2隻に分乗し、指定された初期は泉州、のちには福州の港に入った。そして、10月頃に20人ほどが40日もかかって陸路で北京に向かい、正月の朝賀に出席し、進貢品を献上し、お返しの品々を与えられた。また、福州に残った団員はここで商取引を行った。
また、定期的な朝貢のほか、皇帝への慶賀や冊封使の返礼などもあったので、毎年、なんらかの使節派遣があった。
一方、中国から来る正式の使節は国王の交代の時に来る冊封使だ。国王が死ぬと使節が派遣され、前国王の葬儀が崇福寺で行われ、そのあと、首里城の正殿の前の庭で、「汝○○を琉球国中山王に封ず」という詔書を受け取ったのだ。

14世紀から19世紀中期まで行われた、対中国交易・使節を派遣するために用いられた琉球王国の進貢船(しんこうせん)
「守礼門」と「万国津梁」の全盛期
織田信長が全盛のころ、琉球王尚永のもとへ、明の皇帝が使わした冊封使が来琉し、「琉球はよく進貢のつとめを果たしており『守礼之邦(帝国に忠実な心がけの良い国)』と称するに足る」という神宗(万歴帝)からの勅諭を伝えた。喜んだ尚永王は「守礼之邦」という扁額をつくらせ城門に掲げさせたが(1579年)、これが「守礼門」の由来だ。
琉球王国は、明帝国から厚遇され、非常にたくさんの朝貢船の派遣を特権的に許され、日本や東南アジア各地と中継貿易をして莫大な利益を上げ、「万国津梁(世界の架け橋)」の時代といわれる琉球王国の全盛期だった。
しかし、倭寇の跋扈で朝貢貿易の枠外の貿易が盛んとなり、倭寇をビジネスパートナーとする南蛮船が到来して本格的な中継貿易を始めたので、下火になっていった。
航海に慣れていない中国人は、島を見ながらやってくる福州航路ですら決死の思いで、海が荒れると用意した棺桶に入って銀の釘を打ち付け、漂着した地で葬ってもらう準備までしていたそうだ。
室町幕府・島津氏と琉球王国
ヤマトと琉球王国との関係は、室町幕府とも島津氏などとも書状や使節のやりとりはあったものの、かなりインフォーマルなものだった。幕府では使節は朝貢使節として扱っていたが、あまり重く考えていなかった。
このあたり、室町時代から戦国時代における中国の影響と日本の影響はまったく違う形で及ぼされたので、比較しようがない。ただ、文書によく残っているのは、中国とのつきあいである。歴史などを編纂する官僚群に、中国系だったり留学などでその影響下にある人が多かったりすることや、中国の史書などに残っていることが多いからだ。
しかし、民衆レベルでの交流は圧倒的に日本、とくに南九州とのほうが分厚いものだった。
人の行き来も中国などとは比較にならないほど頻繁だったし、言葉もなんとか通じるわけだから、外交関係という意識は双方になかったようだ。
この時期、薩摩の島津氏は徐々に日本と沖縄との交易権の独占を図った。ただし、将軍義教から琉球を領地とすることを認められたというのは(1441年)、さすがに少し怪しいと言われている。
しかし、応仁の乱が起きたあと、1471年になると、幕府は島津氏の許可なく琉球と交易することを禁じている。これは、勘合貿易や朝鮮貿易を独占する大内氏を牽制する意味もあったようだ。幕府としても琉球は島津の勢力圏といった認識はあったのだ。
貿易についても、琉球と中国の貿易といっても、琉球は仲介するだけで、日本の日本刀、漆、扇、漆器、屏風、銅などを中国に渡し、中国産の生糸、絹織物、薬などを日本側に輸出したりしていた。
宮古・八重山・奄美へ広がった支配
琉球王国の領土は、現代の国境のようにはっきりしたものではない。宮古や八重山では、沖縄本島よりさらに遅れて14世紀あたりから農耕社会になった。そして、宮古では14世紀後半になると、有力な首長が出たり、琉球王国とつながりをもつ者も出てきた。八重山はより希薄なかたちの接触だった。
ところが、1500年に八重山でアカハチの乱というのが勃発し、その鎮圧を契機として、宮古や八重山にも間接支配ではあるが、確固とした支配関係ができあがった。また、最西端の与那国島は1510年頃に琉球王国の支配が確立した。
奄美大島については、奈良時代ごろにはヤマトの影響が及んでいたが、遣唐使の派遣などもなくなると関心もあまりなくなっていた。それが13世紀には沖縄の影響が強くなり、琉球王国の領土と考えられるようになったが、逆に沖縄に奄美や本土の人も多く渡って、支配層になっていたらしいということもあり、ひとつの流れで割り切るのは難しそうだ。
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