映画『開戦前夜』が映す日本の弱点:コロナ対策にレッドチームはいたか

7月31日公開の映画『開戦前夜』は、日米戦争での「日本必敗」を導いた総力戦研究所を描く。人物描写をめぐって遺族と製作側の確執が続く一方、今こそ注目すべきは、国家に不都合な結論を出した制度そのものではないか。

戦前には、不完全ながら政策の前提を壊す仕組みがあった。では、コロナ対策を反対方向から検証する「政策レッドチーム」は、どこにいたのだろう。

「日本必敗」を描く映画が公開された

7月31日、映画『開戦前夜』が全国公開された。舞台は、日米開戦直前の1941年に実在した総力戦研究所である。官僚、軍人、民間企業から集められた若手エリートが模擬内閣をつくり、日米戦争の行方をシミュレーションする。彼らが導いた結論は、日本の勝利ではなく「日本必敗」だった。

映映画『開戦前夜』|7月31日(金)全国公開
主演:池松壮亮|監督・脚本・編集:石井裕也 いったい我々は、何に呑み込まれたのかー  真珠湾攻撃の4ヶ月前―彼らが見たのは、「日本必敗」という結末だった。

素材として、これ以上ないほど現代的である。数字を積み上げた分析があっても組織は動かない。合理的な結論が、立場、責任回避、既定方針、そして「空気」に押し流される。これは80年以上前だけの話ではない。

ただし、映画は公開前から別の意味でも注目を集めた。前身となったNHKスペシャルのドラマ部分に登場する「板倉大道少将」をめぐり、総力戦研究所所長だった飯村穣中将の遺族と製作側との間で訴訟が続いている。

製作委員会は、板倉は名前、外見、階級も異なる創作人物であり、飯村氏をモデルにしたものではないと説明する。その一方で、映画版では混同を避けるために「所長」という肩書を外し、冒頭にフィクションであることを示すテロップを追加したという。

映映画『開戦前夜』|7月31日(金)全国公開
主演:池松壮亮|監督・脚本・編集:石井裕也 いったい我々は、何に呑み込まれたのかー  真珠湾攻撃の4ヶ月前―彼らが見たのは、「日本必敗」という結末だった。

私には、同じ時代、同じ研究所で、実在した所長と重なる役割を担わせながら、「別人なので混同されない」とする説明には無理があるように見える。遺族が異議を唱えること自体は理解できる。一方、歴史を題材にした作品には創作の自由も必要であり、人物描写の法的評価は司法判断を待つべきだろう。

本稿で論じたい中心は、飯村穣個人でも映画表現の是非でもない。注目したいのは、総力戦研究所という制度そのものである。

国家に不都合な結論を出す制度

総力戦研究所は、1940年に内閣総理大臣の管理下に設置された。軍事だけでなく、外交、経済、産業、資源、輸送などを横断し、国家総力戦を研究する機関だった。

近代戦は軍隊だけでは戦えない。石油がなければ艦船も航空機も動かず、船舶が沈めば資源も食料も届かない。局地戦で勝っても、生産力と輸送力が尽きれば戦争は続けられない。

そこで省庁、軍、民間から研究生を集め、縦割りをまたぐ模擬内閣をつくった。彼らの仕事は「どうすれば勝てるか」という願望を作文することではなく、与えられた国力と資源から何が起きるかを計算することだった。

重要なのは、日本の敗北を予測したという結論だけではない。国家にとって不都合な分析でも、政府首脳へ示す仕組みが存在したことである。

総力戦研究所は独立した監査機関ではなく、分析に政策を止める強制力もなかった。結局、日本は開戦した。それでも、政策の前提を数字で壊し、「このまま進めば失敗する」と突き付ける機能は存在した。

現代の言葉を使えば、不完全ながらも政策レッドチームに近い。

政策を作った側に、政策を壊す役割まで任せるな

レッドチームとは、組織の計画や前提を、あえて敵対的な立場から攻撃する役割である。軍事演習では敵軍役を置き、サイバーセキュリティーでは攻撃者の視点から侵入を試みる。近年はAIについても、誤回答や悪用可能性を見つけるためにレッドチーム評価が行われる。

目的は、計画の正しさを確認することではない。失敗する条件を探し、組織が見たくない損失を表へ出すことである。

政策にも同じ機能が要る。政策を立案した官僚や専門家は、その政策に最も詳しい。しかし、自分たちが積み上げた前提、予算、権限、評価から完全には自由になれない。

だから政策を推進する側とは別に、「本当に有効か」「利益より害が大きくないか」「誰が利益を得て、誰がコストを負うのか」「いつ縮小し、終了するのか」と問い続ける側を置かなければならない。

コロナ対策に専門家はいた。レッドチームはいなかった

コロナ対策にも専門家はいた。専門家会議、分科会、厚生労働省アドバイザリーボードなど、多数の医師、感染症専門家、公衆衛生学者、数理モデル研究者が政策形成に関与した。

未知の感染症に対し、感染経路を分析し、重症者や死者を減らす助言は不可欠だった。しかし、専門家がいることと、レッドチームがあることは同じではない。

感染症専門家の使命は感染を減らすことだ。その立場から見れば、人の接触を減らし、移動や病院への出入りを制限することには合理性がある。

だが、面会を止めれば患者は家族から切り離される。学校を閉じれば学習、給食、友人関係、家庭外で異変を発見される機会まで失われる。営業を制限すれば店が閉まり、雇用が失われる。

感染対策の利益は感染者数などに表れやすい。一方、対策による害は教育、経済、福祉、医療倫理へ分散し、遅れて現れる。だからこそ、「その制限は比例的か」「より権利侵害の少ない方法はないか」と逆方向から問う組織が必要だった。

日本政府が何も検証しなかったわけではない。2022年には有識者会議が報告書をまとめ、2026年7月には政府行動計画の年次フォローアップが公表された。私は、その内容を2本の記事で検討した。

次のパンデミック対策は本当に安全か:政府のコロナ採点表にない「やり過ぎの害」
自ら出題し、自ら採点する2026年7月16日、政府は第23回新型インフルエンザ等対策推進会議を開いた。特措法に基づくこの法定の会議は、国のパンデミック対処マニュアルである政府行動計画(2024年7月改定)が、どこまで実行されたかを毎年点検す...
なぜ政府は「やりすぎ」を学ばないのか:謝ったら死ぬ国は学ばない
(前回:次のパンデミック対策は本当に安全か:政府のコロナ採点表にない「やり過ぎの害」)空いたままの欄前稿で見たのは、一枚の空欄だった。2026年7月16日に公表された新型インフルエンザ等対策政府行動計画のフォローアップは、病床も検査も備蓄も...

そこで見えたのは、検証の不在ではなく、検証方向の偏りだった。病床、検査、物資、人員、司令塔機能については「足りなかったもの」が点検される。だが、行動制限や面会制限は過剰でなかったか、患者の権利を制限する必要性は誰が立証するのか、という逆方向の問いは弱い。

準備不足を認めれば、組織には予算、人員、権限の増強がもたらされる。過剰対応を認めれば、自らが課した制限について責任を問われる。制度は、自分を強くする失敗は学びやすい。自分の権限を縮める失敗は学びにくい。

だから、政策を作り実行した側に、政策レッドチームまで兼ねさせてはいけない。

異論と記録がなければ、後世も訂正できない

戦前の方が優れていた、と言いたいのではない。総力戦研究所は開戦を止められず、日本は破局へ進んだ。

それでも、日本が何を知りながら開戦したのかを示す分析と証言は残った。

私は7月31日掲載の記事で、米重巡洋艦インディアナポリス沈没後、組織の失敗がマクベイ艦長個人の責任へ縮小され、半世紀後に12歳の少年らの働きで名誉回復へ動いた経緯を書いた。

国家の過ちを正したのは12歳の少年だった:重巡インディアナポリス沈没から81年
組織の失敗を一人の艦長に背負わせた1945年7月30日未明、米海軍の重巡洋艦インディアナポリスは、日本海軍の潜水艦「伊58」の魚雷攻撃を受けて沈没した。広島型原子爆弾の部品をテニアン島へ運ぶ極秘任務を終え、グアムからレイテへ向かう途中だった...

少年が真実を無から発見したわけではない。生存者や攻撃した日本側艦長の証言、米海軍の調査記録が残っていたから、後世から組織の判断を問い直せたのである。

では、コロナ対策はどうか。

最終的な提言や配布資料だけでなく、誰が何を主張し、どの異論が退けられ、何が検討されなかったのかまで、未来の研究者が再現できる形で残されているだろうか。

議事録、メール、意見書、試算の前提、修正履歴、政策決定者と専門家のやり取りは、十分に保存されているのか。この問いは、公文書管理と情報公開の実態から、いずれ検証しなければならない。

必要なのは、間違えない政府ではない。

政策の前提を壊すレッドチームを置き、不都合な異論を記録し、後から誤りを訂正できる政府である。

戦前の日本には、不完全ながらも「日本は負ける」と分析する仕組みがあった。コロナ対策を検証する現在の日本が、「やりすぎではなかったか」という問いすら制度の外へ追いやるなら、私たちは戦前から進歩したとは言えない。

【出典】

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