
このnoteを始めて最初の8月に、こんな記事を出した。当時はさすがに、ウクライナとガザのWで戦争が進行中の「いまが底だ」と思っていたのだが、ご存じのとおり、米国とイランの停戦が破れた今年はもっと最悪である。

アメリカのように高価な最新兵器を持つわけではない、イランの戦い方は廉価なドローンの大量投入だと言われ、ロシアもまた同国から技術を移入し、対抗してウクライナもドローン戦術を採るようになったとされる。
それが戦争のあり方を大きく変えたのは、事実のようだ。ウクライナ軍に同行し、実際に戦地を足で歩いて書かれた記事によると――

ドローン戦は前線の常識を一変させた。装甲車両は格好の標的とされ、足かせにもなる。兵士の集団は狙われる。……ドローンの音が聞こえたら茂みに駆け込まなければならない。茂みがあれば身を隠すことができ、ドローンは飛べない。
(中 略)
ドローンをよけるためには、集団で安全を確保しようとする人間の本能に逆らい、互いに離れて散り散りになる必要がある。一人でいれば、ドローンを操縦するロシア兵の関心は薄れる。
CNN、2026.5.21
(強調を付与)
ドローンを操る側も、その攻撃を避ける側も、かつてなく個人単位でバラバラに戦うのがいまの戦争らしい。安全な日本でスマホを手にSNSをリポストして「私も参戦!」気分になっているのは、その矮小な戯画だが、象徴的な景色ではある。

そんな現在との対比で、古い戦争の歌を思い出した。正確には戦争の歌だと “言われた歌” だ。
1970年にCCRという、米国の渋いバンドが歌った Have You Ever Seen the Rain?は、直訳だと「お天気雨を見たことがあるかい?」と訊くだけなのだが、そんなくだらない曲があるはずがないので、みんな深読みしたのだ。
現在はメンバーの証言もあって、お天気雨は「満ち足りた日々が終わる兆し」の隠喩だとされており、新しく作られた公式なPVもその解釈を採っている。が、発表時はそうでなかった。
タイトルの the Rainという定冠詞がそもそも、「あの雨」みたいな仄めかしを思わせて不気味である。で、発表された1970年がベトナム戦争のさなかだったために、自ずと独自の解釈を生んだ。
米軍が当時、濫用したナパーム弾は、あたかも水流のような独特の形で炎を上げることがある。「あの雨」とはそれを指すものだとする、反戦歌としての聴き方が、長らく定番になったのである。
そう聞けば(ぼくも含めて)リアルタイムじゃない世代でも、あぁ、あれか、という風に、歴史番組で見た画像を思い出すだろう。そうした共通のシンボルの存在が、かつては戦争を扱う議論を実のあるものにしていた。
そんなニュアンス重視で、いま歌詞を訳すと、
(1番)
Someone told me long ago
ここに来た時に言われたよ
There’s a calm before the storm, I know
嵐の前は静かになるんだって
It’s been comin’ for some time
もう、その意味をぼくは知ってるWhen it’s over, so they say
終わった後にみんな言うんだ
It’ll rain a sunny day, I know
「晴れの日に降る雨」があるって
Shinin’ down like water
炎が水のように降ることもある

Asia-Pacific Journalの論考より。
なおナパーム弾の大量投下の嚆矢は
東京大空襲だった
(サビ)
I wanna know,
教えてほしい
Have you ever seen the rain? ×2
君も「雨」をこれまで見たのか
Comin’ down on a sunny day?
晴れた日に降ってくるその雨を(2番)
Yesterday and days before
昨日もその前もずっと
Sun is cold and rain is hard, I know
太陽は寒々しく雨だけが激しかった
Been that way for all my time
ここに来てからずっとそうなんだ‘Til forever, on it goes
終わるのかどうかもわからない
Through the circle, fast and slow, I know
緩急があるだけでずっと続いてく
It can’t stop, I wonder
止められないのかって思うけど
となる。そして問題は、ドローンが主力の “個人化” された戦争は、こうした 「象徴の共有」さえもたらさずに、ただ傍観者たちを無責任なまま好き放題に騒がせ、引き裂いてゆくことだろう。
かねがね書いているとおり、なにせ開戦の当初は興味を持たないのは「ありえない」、センモンカと同じ主張以外「あってはならない」と煽りながら、戦争がダラダラ続き自分が飽きるや、

コロナもウクライナも、もう「今はホットイシューではないので」、そんな〔なにが正しかったかの〕検証は載せてもバズらない。
強調を変更
と、ヘラヘラ言い放つ “意識の高い媒体” の編集者もいるくらいだ。ちょうどいま校正が佳境の、秋に出す『なぜ「まちがえた」と言えないのか』では、そんなクズがはびこる世相の理由を、
国民が不安に憑かれパニックに陥るほど、「これが正しい!」と断じる言論のニーズは高まる。だがそれ一色にメディアを染めようとする者は、ほんとうに正しさを信じてやっているのか?
特定の論調のみに偏する態度は、「なにがバズるか」を先読みしやすい環境を愉しみ、効率よくアガリを取り立てる発想からも生じうる。
新刊「あとがき」より
のように、はっきりと記しておいた。
最初に掲げた2年前のnoteに書いたとおり、戦争を “推し活ビジネス” として消費することでクラスター弾のように乱射された言葉の数々は、戦争が終わった後になにも残さないが、かといって戦争を語り継ぐ必要は消えない。
その困難を乗り越えるのはもう学問ではなく、かつて世代を超えて共通の体験を作り出した、こうした文化的な素養だろう。安逸な銃後で「専門家」が無責任になり、趣味も悪くなる例は、この間ずいぶん見させてもらった。

最後に、いまいちばんよく聴く、この曲の日本人によるカバーを。2023年のパフォーマンスらしいが、歌い方から察して、”古い解釈” も踏まえて弾いているように思える。そんな系譜が続くことにこそ、かすかな希望がある。
参考記事:


(ヘッダーは、2024年2月の朝日新聞より)
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2026年8月13日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください







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